毎日聖書を読んで教えてもらう必要
昨日はなぜ毎日聖書を読む必要があるのか?となぜ聖書によって戒められる必要があるのか?の2点について書きました。僕自身はくつわをかけられないと好き勝手にどこにでも行くロバのように制御しがたい人間だと思っています。だからこそ、毎日聖書を読んで教えてもらう必要があります。
なぜ、自分自身をこのような比喩で例えるかというと、人間の本質は原則安きに流れるからです。例えば、僕は地球温暖化や環境破壊をどうにかしたいと思っています。しかし、僕は時に飲食店でテイクアウトをすることがあります。たった1回のテイクアウト、わずか数時間の利用のために複数のプラスチックが消費されます。
「環境破壊をどうにかしたいと思っているんだったらテイクアウトやめろよ!」という心の声が聞こえてくるのですが、申し訳ありません。僕は安きに流れてしまっているのです。
金融政策は安きに流れるもの
他の事例もあげてみます。ある経済学者は「金融政策は安きに流れるもの」と言いました。それは本当にその通りだと思います。国や国民全体が痛みを覚えるような緊縮政策や債務整理をするよりも、金融緩和政策や財政出動をするほうが楽ですし国民にも喜ばれます。
数十年来の低金利政策で企業はそれに完全に慣れ切ってしまっており、十分な金利のある世界(2%とか3%とか)に適応することは難しそうです。それは一見楽に見えますが、内実はやるべきことを後回しにしているだけであってその結果の果実は必ず受け取らなければなりません。
安きに流れて主の御心から離れてしまう者
経済活動は一人ひとりの人間の行動の集まりだとすると、やはり人間は安きに流れるものという理解は間違っていないと思います。
だからこそ僕自身は自身の信仰においてもすぐ安きに流れて主の御心から離れてしまう者であることを認めています。冒頭で僕は自身をくつわをかけて制御してもらわないと気まま勝手に含まうロバのような者だと言いました。
しかし、主はくつをかけて僕を制御しようとはされません。むしろ僕がこのようにするのを待っておられます。それは、僕が勝手気ままに生きているところから歩みを止め、悔い改めて、主のもとに帰るということです。
イエス様に学ぶ
一度そうするならば、主は僕が二度と離れないように僕にくつわをかけるどころかこのようにおっしゃってくださいます。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
マタイ11:29-30
イエス様は僕に学びなさいとおっしゃいます。僕はイエス様に言います。「主よ、私を教え、戒め、正しくし、義に導いてください。」