1195_イエス様だけが罪を断ち切ることができる

自分の力で罪から逃れよう

ここ数日、ずっと自分の中にある偶像に関して書いてきました。それは廃棄されなければいけない自分の中にあるアシラ像です。僕は今まで悔い改めては、また偶像を持ち出してくるということを繰り返していました。

僕はこれまで自分では祈って神様に頼って生きているつもりだったのですが、実情は自分の力で罪から逃れようとしていたようでした。だから、当然全く罪から離れる自信がありませんでした。人間は自分の力で罪から逃れることは決してできません。もしできるなら、イエス様は十字架にかかる必要はなかったことになります。

クリスチャンとしては、これほど当たり前で核心的なところなのに、僕はそこが見えなくなっていました。

またバックスライドするんじゃないか

しかし、今回はこれまでと違う体験でした。それは自分の霊的な深い領域において、罪が赦されたという確信だけでなく、断ち切られたという体験だったからです。それは確かにイエス様の十字架の効力が自分にもおよび、そして僕は二度と罪のくびきを負わされることはないという確信でした。

だから、今は「またバックスライドするんじゃないか」とか「どうせまたもとに戻ってしまうのだろうか」といった不安がなくなりました。確かに主がなされたわざで、主にはそれができるし、僕はイエス様により頼むことだけすればいいという安心感です。

内側が変えられた

内側が変えられたので、自分で何かをやらないといけないという義務や強制感もなくなりました。以前は「スマホは触らないようにしよう」とか「SNSは見ないようにしよう」とか「寝る前に祈らないといけないと」というような自分で自分を強制しないとできない状態でした。

しかし、内側から変えられると、そもそも、仕事が終わったあとにスマホを触りたいとも思わなくなりました。エナジードリンクも最近は毎日1本飲むような生活が続いていたのですが、糖分も必要なくなりました。飲みたいと思わなくなったのです。また寝る前に主に祈りたいという気持ちから祈ることができるようになりました。

これは僕が頑張って言語によって自分を強制して習慣化させてできたことじゃありません。ただただイエス様が僕の内側に働きかけてくださって、イエス様の十字架の血潮によって僕が造り変えられたからです。

はじめの愛に帰る

僕は救われたのちに自己啓発にはまり、言語によって自分を変えるとか自己修練などに取り組んできました。そういった考えがイエス様から僕を離していたということにも気づかされました。

まだ、はじめの愛に帰るという帰路にありますが、本当に主だけに信頼して生きたいです。

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