教育者としての嫁さん
今日は僕がリスペクトしている嫁さんの側面を書いておきたいと思います。こうするのは別に自慢でもなんでもなくて、嫁さん以前に一人の人として彼女を尊敬しており学ぶところがあると感じているからです。
僕と性格真逆で自分にないものを持っていてうらやましく思う側面は多くあるのですが、嫁さんがもっている教育者としての一面を特にリスペクトしています。
知識や経験だけではない
日々、子供と接している嫁さんを見て「うまいな~」とか「さすがだな~」とか思わされることが毎日あります。嫁さんはもともと保育士として7年近く教育に従事しており、知識も経験もあることには違いないのです。ただ、その知識を経験が僕にあれば同じようにできるか?と言われたら決してそうではありません。
教育とは、知識や経験以前にその人がもっている内側にあるものが教育者たらしめているのだと思います。
育児は人格
育児をしているとどう対処していいのか困惑する場面に遭遇します。せっかく手間暇かけて作ったご飯を全く食べないどころか、お皿ごと放り投げられることがあります。やってはいけないことを何度もする時もあります。やらないといけいないことを全然しない時もあります。
僕なんかは結局あとで新しいごはんを作るはめになるのですが「そんなことすると、もう食べるものないよ!」とか言ってしまいます。また、やってはいけないことであっても見逃したりしてしまう場合も多いです。
同じ立場になる
しかし、嫁さんを観察してみてわかったことがありました。それは嫁さんが子供の気持ちになって状況に対応しているということです。嫁さんは子供がイヤイヤ期の真っ只中にあることを理解しています。また子供自身ですら初めて体験するイヤイヤ期に困惑を覚えています。自分でもどうしていいかわからない状況にあるのです。
これは、人間誰もが感じていることではないでしょうか。「自分がしたくないことはしてしまうのに、したいことはできない。」これはパウロ自身が苦しんだ内容であり、この苦しみから解放してくださるのはイエス・キリストしかいないと言っています。
わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
ローマ7:15
そのような苦悩の中にいる者に対してイエス様はこのようにおっしゃって憐れんでくださるお方です。
そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
ルカ 23:34
イエス様を見て思うのは、導き手という存在は、その者と同じ立場を取り、憐れむというものだと思います。
相手の立場になること
僕は過度な自己中心的よりな人間なので、相手の立場になって考えるが非常に難しいと考えています。しかし、イエス様が共にいてくださるならそれができると信じて信仰生活だけでなく育児にも応用していければと思っています。