1094_毎朝起きると自分に対して不安があるが、それが主を求める動機になっている

ずーーーと二心の生き方

これまでの自分の歩みはほとんどずっと「主にも仕えるが自分の好きなことにも仕える」というようなものでした。確かに主を愛して主のために生きたいという真実な心はあるのですが、それは持続的なものではなく、ふとした時、仕事が終わった時、つかれた時、一人になった時に自分の好きなことをして生きようと思ってしまうことが多くありました。

僕は客観的に自分を見て、自分のそのような二心の生き方は嫌だと思っていると思っていました。しかし、自分の思考や行動を注視してみると、決して嫌だなんて思っていないことがわかったのです。僕は喜んで二心の生き方を選んでいるというのが事実でした。

ユダの王に自分を見出して

それから自分の罪深さと弱さをはっきりと認めるようになりました。特にそのようなタイミングで通読で列王記や歴代志を読めたことは大きな収穫でした。

それは、主を求める生き方をするが他の神にも仕える生き方をしていたユダの王様たちがどうしても自分にしかみえなかったのです。そして、そのような者であっても神様が豊かに憐れみと愛を与えてくださっていることを霊的な側面で深く知った時に自分は本当に何物でもないどころか、神様の前に屑同然だと確信したのです。

本当の自分の姿を知った

それから祈りが変わったと思います。自分は自分のしたいことだけを求めていることを認めて、自分の罪深さと向き合ったのです。そのような自分には決してできないけど、イエス様にはできるという信仰が生まれました。

それから、毎朝始まるといい意味で不安です。それは自分の力で生きていけるからという楽観がなくなったということです。本当に主がいなければ、僕はいきていけないという自分に対する不安が毎朝あるのです。

自分に対して不安なのはいいことなのだ

自分自身に対する不安があるだけでなく、主が共にいるなら大丈夫だという安心感もあります。それが主を毎朝求める動機になっています。もし、自分の力で生きていける。自分にはできる。自分には悔い改めることがないと思っていたなら、主を求める必要はなかったでしょう。

今は、主が共におられることがこの上なくうれしくて、主が共にいてくださっている自分が好きです。主が共にいてくださらなかったら僕は屑でしたが、主が命を与えてくださって生きる者としてくださったのです。

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