もう仕事をやめたい
先日、今年の4月から新卒で働き出す大学生と食事をしました。彼いわく、内定式が終わって以降、毎月研修があったり、資格を取るように言われたり、無賃金でなかなかの要求をしてくるとのことでした。彼は入社前にすでに1年続くかな〜と言っていました。
そこには僕以外に2名社会人がいたのですが、みんな一様に新卒入社の1社目がかなりキツめの会社だったおかげで、今の職場に感謝の気持ちしか湧いてこないと言っていました。キツめと言うのは労働時間や待遇や人間関係などを含みます。1社目を経験していたからこそ、相対的に今の会社のほうがいいと思えるようになったのです。
僕の新卒
これは僕も全く同感でした。新卒1社目は、完全に社会不適合者丸出しで自分の弱みだけが強調され、強みが死んでいるような状態でした。労働時間も待遇も人間関係もかなりきつかったです。
しかし、そういったところを通らせて頂いたおかげで、今の会社では多少の辛いことやきついことがあったとしても、「あの頃に比べたら…」と乗り越えることができます。だから、新卒で入った会社にとても感謝しています。罵詈雑言はかれながらも、社会人としての厳しさを教えていただけたのは大きな恵みだと思えるようになりました。
相対的に感じるもの
このように人間が感じるものは客観的なものではなくて、完全に主観的なものであり、かつ相対的なものであることがわかります。自分が経済的にどういった立ち位置にいるかは、身近な友人やご近所さんが比較対象になったりするものです。
だからこそ、「比較対象になる自分の過去の苦労の経験」が必要になるのです。
こういった格言があります。
「若い時の苦労は買ってでもせよ。」
「かわいい子には旅をさせよ。」
若い時の苦労の経験によって、のちの人生が相対的に恵みと思われるのだと思います。
主と共に歩むこと
聖書にも同様の言葉があります。
人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
主がこれを負わせられるとき、
ひとりすわって黙しているがよい。
哀歌3:27−28
聖書の場合はただ単に「若い時に苦労をしなさい」ではありません。主と共に歩むということです。主は聖書を見ると明らかですが、人を造り変えるために、品性を練るために、試練を与えられる場合が多いです。
多くの聖書の人物は試練を通して、品性が寝られ、器が大きくなり、そして、なによりも主ととの信頼関係を強固なものにしていきました。その過程で、主が真実なお方であり、愛のお方であり、恵みに満ちたお方であり、憐れみ深い方であることを経験したのです。
結論
だから、僕の結論は、これです。
主と共に通る苦労は良いもの。なぜなら、それを通して自分自身の品性などが造り変えられます。なによりも、主の愛、恵み、真実を知ることができます。そして、たとえ、苦労と思うことがあったとしても、その苦労は主がゆるされたから与えられているものと信じることができるからです。