アガペーの愛の三つ目
昨日に続いて、神の愛の性質について書こうと思います。コリントⅠの13章4節は「愛は寛容であり、愛は情け深い」から始まります。アガペーの愛は寛容であり、情け深いというのです。その続きはどう続くのでしょうか。僕は別の聖書箇所にかかれている御霊の実が次に続くのにいいのではないかと思いました。
御霊の実とは、キリストと共に生きる者が結ぶことができる品性の実です。全部で9つの実があり、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制があります。
実際に愛や寛容や慈愛という言葉があります。ですので、「愛は寛容であり、愛は情け深い。愛は平和であり、愛は善意である。」のように続くのが自然のように感じます。しかし、実際はそうじゃありません。
妬みやすい世の中
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また妬むことをしない。」と続くのです。なぜ、3つ目に妬むことをしないと続くのでしょうか。おそらく、人間が妬みやすい人間だからだと思います。人間は不寛容であり、情け深くもありません。さらに、よく妬みます。だからこそ、神の愛と人間の愛の対比を明確にしたのかなと思いました。
特に現代は妬みやすい世の中です。SNSで比較対象が一気に広がりました。以前はせいぜい近所、学校、会社などごく限られたコミュニティーだけが比較対象になっていたのですが、SNSの普及によって、自分がどれほど持っていないか、自分がいかに成功していないか、を感じさせるようになったと思っています。
「映え」という言葉が表すように、映えている生き方をしないと成功していないと感じさせるのです。
妬みの気持ちが高まると
比較対象が広がると、妬む気持ちが心に浮かんできます。もし、妬みの感情に囚われてしまうなら、あの人はいい車に乗っているのに私は持っていない。あの人はいいパートナーがいるのに私にはいない。あの人はビジネスで成功しているのに、私はこんなことをしている。というような言葉の洪水に飲まれることになります。
もしその洪水を治めることができないなら、行動に現れてしまいます。そういった妬みの感情がSNS上で誰かに対する辛辣なコメントに繋がったり、時には袋叩きにしたり、吊し上げにしたりする行為になるのだと思うのです。
現代は、「成功していないと自分はダメだ」と思うような世界になってしまっているのです。しかし、実際はそうじゃありません。多くのクリスチャンが「キリストを得たことは、つまり、すべてを得たこと」と告白してきたように、キリストを知り、キリストを得続けることが人生の最大の満足です。
妬みから解放されるために
何よりもキリストを得た人は妬む心からも解放されるのです。なぜなら、聖書に、「あなたがたが召されたのは実に自由を得るためである。」と書いてあるからです。
昨日も書きましたが、僕自身は不寛容であり、無情非情無慈悲であり、妬む者です。だからこそ、イエス様に心にお迎えして妬みの感情から解放させて頂きたいと強く願っています。