キリストに満たされるならば
既に他のクリスチャンによって実証されていると思いますが、自分の中ではまだ明確に実証されていないので、このような仮説を立てました。「イエス・キリストにすべての満たしがあるのであれば、この世のものに心が惹かれることはなくなる。」
これは一見、つまらない生き方に見えるものです。僕はただたんに飲食を楽しまない、娯楽を楽しまない、人との交流を楽しまないことを望んでいるわけではありません。もしそうであれば、山にこもったほうがましです。そんな生活をしていたら、神様の栄光を表すような生き方もできないし、神様も望んでいないと思います。
二次的なものが祝福される
僕が少しばかり体験したことがあることとして、まず神を第一に求める時に、その他二次的なものが神によって祝福されるということです。具体例を上げると、例えば、勉強の前に神に近づく、仕事の前に神に祈る、礼拝をしてから遊びに行く、というように前者において神を求めると、後者が祝福されるということです。
それは聖書にはこのように記載されています。
まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
マタイ6:33
原理原則は神を第一に求める時に、そこに神がともにおられ、飲食や娯楽も人との交流も祝福されるということだとおもいます。
正しい姿勢とは
ここで見逃してはいけないことが祝福を求めるのが目的になってはいけないということです。勉強で学力を上げたいから神頼み、仕事で不安だから神頼み、友人関係で祝福されたいから神頼みというような感じです。
もちろん全く間違っていない姿勢だとは思いますが、神が求められておられるのは、罪赦された者が心のかわきや魂のかわきを求めるように神ご自身を求めることだと思います。詩篇の作者はこの状態をこのように謳っています。
神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、
わが魂もあなたを慕いあえぐ。
わが魂はかわいているように神を慕い、
いける神を慕う。
42:1-2
まとめ
この仮説をまとめるとこうなると思います。
- イエス・キリストにすべての満たしがあるのであれば、この世のものに心が惹かれることはなくなる。
- この世のものに惹かれないが、この世との接点が完全に分離されるわけではない。
- むしろ、その接点に影響を受けるのではなく、神の祝福の接点となる。
- 正しい姿勢は第一に神ご自身を求めることであり、接点の祝福は二次的なもの。
というようなことをだらだら書いていないで、さっさと生活で実践しろ!笑ということだと思います。