代わりはいくらでもいる
会社という組織は、悲しいかな仮に自分自身が辞めたとしても、何もなかったかのようにそのまま続いていきます。自分と言う存在は特別でありユニークでありたいと望むので、もしかしたら、「自分がいなくなったらきっと会社は困るだろう」と思いたくなるかもしれません。しかし、会社が必要としているのはその人の能力であり生産性であり、アウトプットなので、人を雇いさえすればなんとかなるものなのです。
これまでいくつかの会社に属していましたが、代わりがいたり、別の方法・手段があるので、辞める人たちが思っている以上に、誰もそれほど困らないものです。
いなくても大きな問題にはならない
以前、中国で日本語教師をしていた時、未払い賃金が発生していました。僕はこの日本語学校には僕を含め2名しかいないのを知っており、日本人教師がいなくなると、客寄せパンダがいなくなってしまうので、学校はかなり大きな打撃を受けると思って、進退をかけて未払い賃金に関して交渉をしたことがありました。
結果は、中国人の校長が声を荒らげて、「平野、日本人という身分を交渉に使うな!」と言って、辞めたければやめたらいいというスタンスでこられてしまい、交渉に失敗したことがあります。もちろん、校長にとったら、日本人がいなくなるのはかなりの痛手です。しかし、それでも、すぐに代わりは見つからなくても、何らかの方法で対処すればいいだけなのです。100点満点でなくていいのです。
なんとかなる
先日のブログでは、開発チームでコアのエンジニアがいなくなると、開発が立ち行かなくなる場合があると書きました。実際にコアエンジニアがいなくなると、きっと売上も落ちるでしょう。しかし、そんな最悪の場合であっても、その事業を切って別の開発をする意思決定などもあるので、なんとかなったりします。
概ね、多くの会社は立ち行かなくなるか、ならないかのギリギリのところで、100点満点を取れなくても、40点くらいの開発で募集をかけながら、頑張り続けているところがたくさんあります。
神様の目には
じゃあ、自分はいくらでも代わりがあるただの量産型なのでしょうか。会社にとってはそうかもしれませんが、本質的な存在においては、ユニークな作品であり、代替のないものです。本当に世界で1人だけの神様から愛されている存在なのです。
この世の中は、自分がいかに大切な存在であるかがわかりにくい世界だと思います。しかし、神様の目には高価で尊い存在なのです。たとえ、世の中での生活が苦しくても、自分なんかと思うことがあっても、神様は変わらぬ愛で愛し続けてくださっています。
わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。
イザヤ書43章4節
■しかし、神の目には代替はなく高価で尊い存在である