信仰継承は可能か?
一般企業の場合、特に中小・零細企業の多くの場合、世襲制が採用されており、代々同族によって経営されることが多いように思います。同じ血筋での世代交代に成功しているように思います。じゃあ、クリスチャン家庭はどうなのか?といわれると、クリスチャンの両親だからといって、必ずしもその子供がクリスチャンとは限らないようです。
ある信仰書には、「信仰は継承できるようなものではない」と明確に書かれていました。もちろん、クリスチャン家庭で育つことで、幼い頃から聖書の言葉に親しみ、親の日々の思考や行動からクリスチャンとしての品格を見るかもしれません。
個人的な決心
例えば、中国にいた時に出会った趙さんは両親がクリスチャンでしたが、自身は教会に全く行っていなかったようです。しかし、彼が重度のやけどを負って生死をさまよっている時に、彼の母が病院内に響き渡るような大きな声で主に祈り叫ぶ姿を意識が朦朧とする中で見たそうです。その時に、初めて母が必死で求める神様は本物だと気づき、悔改めて主に立ち返ろうと決心し、奇跡的な回復を体験するに至りました。
僕の場合も日頃の両親の思考や行動は確かにすごいと思っていましたが、自分には関係ないと思っていました。しかし、遅めにきた中二病で人生詰んだと思った時に、本当に主がおられるのであれば、信じてみたいという気持ちが起こってきました。それは文字通り藁にもすがる思いでした。イエス・キリストをすがり求めて行く中で、この方こそが僕を変えることができるという予感が次第に実感に変わり、実感が確信に変わっていくのを感じました。
信仰の始まり
僕は自分以外の人にはなったことがないのでわかりませんが、もしかしたら、誰でも「変わりたい」と思っているのかもしれません。どれだけ表面的にはうまく繕えていたとしても、自分の心の中の状態を自分に偽ることは決してできません。あの素晴らしい才能をもった文豪ゲーテでさえも、最後は「もっと光を!」(Mehr Licht !)と叫んでなくなっていったそうです。
そういった心の中の闇を照らしてくださるお方はただ一人です。イエス・キリストが僕たちの心に来てくださる時に、圧倒的な栄光の輝きでこの暗い心を照らしてくださるのです。部屋が暗い時、ショベルで暗闇を出すことはできません。ただ、スイッチを押せば、光が照らされれば、暗闇は逃げていくのです。
創世記のはじめに、「はじめに光があった」とあるように、イエス・キリストの個人的な関係のスタートは暗闇に圧倒的な光が差し込む体験かもしれません。自分は汚くて暗くて、じめじめしているけれど、降参して、悔い改めるならばイエス・キリストは心の中に来てくださるのです。それにはクリスチャン家庭出身とかそうじゃないとかは関係なく、すべての人にひらかれています。
光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。
ヨハネ 1: 5