0362_小学校で大便することは恥ずかしいことという同調圧力

小さなことでも祈る

ランニングをすると自分に肉体的な負荷をかけることができます。調子がいい日はどこまでも走れそうな気がしますが、そうでない時は、少し走っただけで、今日はきつい日だとわかるようになります。誰かに強制されてしているわけではないので、歩こうと思えばいつでも歩けるのですが、絶対に歩かないようにしています。

先日は早朝から7キロ走ったのですが、折り返し時点ですでに苦しくて歩きたい衝動に駆られましたが、心の中で、「もし御心でしたら家まで完走させてください。」とかなり利己的なお祈りをしました。すると、意識がイエス様のほうへいき、そのあと、家まで無事走ることができました。

小さなことでも祈る習慣

「そんなことわざわざ祈って!だから?」という方もいらっしゃるかもしれませんが、こういった小さなことでも、苦しい時に反射的に主に祈る姿勢は悪くないと思っています。天のお父様に遠慮しなくてもいいと思っています。

僕は小学生の頃、学校へ行く前にいつも「学校でうんこをしたくなりませんように」と祈っていました。といのも、当時は(もしかしたら今も?)小学校で大便することは恥ずかしいことという同調圧力がすごかったからです。もし、誰かが個室に入っているのを発見したら、「うーわ!くっせ!」などとからかう心無い小学生が多かったのです。だからなんとしても学校では便意を感じたくなくて祈っていたのです。

こういった祈りは、特に誰かのために祈っているわけでもなく、一見すると自己中、利己的な祈りに見えますが、子どもの頃から、何かあったらすぐに神様に頼るという習慣づけができたのは良かったと思っています。

弱いから主が必要

自分が不安な時、弱さを感じる時、様々な時に主により頼むのはいいことだと思います。僕は友人に「宗教は弱い者が信じるものだ」と言われたことがありますが、本当にその通りだと思います。弱いから主が必要なのです。もし、自分が強い人間だったら、主により頼むことを知らなかったと思います。自分の弱さはいつも僕を主に近づけてくれるから、自分の弱さもありがたいと思っています。

日常で困ったら、遠慮せず、はばかることなく、すぐに主に助けを呼べばいいのです。

悩みの日にわたしを呼べ、わたしはあなたを助け、
あなたはわたしをあがめるであろう。
詩篇50:15

おっさん
■日常の小さな出来事でも主により頼むことができる
■そして、主は実際に助けて下さるお方
■宗教は弱い者が信じるものだというのはきっとそうだろう
■弱さが主に近づけるのであれば、喜んで弱さを誇ろう

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