知っているということ
孔子の言葉にこのような言葉「知之为知之,不知为不知,是知也。」があります。中国語の発音の反り舌音を練習するのに最適な一文であり、初学者のテキストにはよく記載されています。自分が「知っていること」と「知らないこと」を自覚していることこそが、「知る」ということと訳されます。
一方で、聖書に出てくるパウロはこのように言っています。
もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
コリントⅠ8:2
少しニュアンスは変わりますが、言わんとしていることは似ていると思います。偉大な人物がこのような言葉を残しているということは、つまり、人間は自分が知っていると思っていても、実は知っていないことのほうが多いものなのです。
ほとんど知っていない
「知ったかぶり」という言葉がありますが、人間はあたかも知ったかのように振舞ってしまう弱さがあると思います。例えば、何かの本を読んだとします。読了後はついつい、その本を読み切ったことに満足してしまい、肝心の書いてあることが頭に入っていない可能性もあります。その本について5分間説明してください。と言われた時に少しも説明できないならば、その本の内容について「知っていない」ということになるでしょう。
自分に知らないことがあることを知る(自覚する)と、人は謙遜になります。学ぼうという姿勢が起こりますし、人に教えを乞うような姿勢になります。そこには弟子が師を敬い、教えを求める美しい関係があります。
誰に知られているか
先ほどのパウロの言葉には次に言葉が続きます。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
コリントⅠ 8:3
すごく美しい言葉だと思います。人間自身が何かを「知っている、知っていない」ということよりも、神様に「知られている」ということのほうが重要だというのです。
例えば、僕のことを知っている人はどのくらいいるでしょうか。幼稚園から今に至るまでかかわった人を含めると数千人は僕のことを知っているかもしれません。しかし、実際はほとんどの人は僕のことなど知らないのです。せいぜい、仲のいい友人や家族の数十人くらいだけだと思います。
その人たちでさえ、完全に僕のことを知っているわけではありません。ましてや僕自身でさえ、自分のことを完全に知っているかというとNOなのです。
知られているという喜び
完全に僕のことを知っている方はただ一人。創造主である神のみです。僕はそのような方に知られているということを誇りに思います。仮に著名人が自分のことを知っているとするならば、きっと誰かに自慢したくなるのではないでしょうか。例えば、「今年も木村拓哉からお中元が届いたんだよ~」や「上白石萌音から誕生日のお祝いLINEが来たんだよ~」って話たくなると思います。そういった著名人よりももっと偉大な方が完全に僕のことを知ってくださっているというこはすごいことなのです!
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
コリントⅠ 8:3
■知っていないことを自覚すると人は謙遜になる
■自分が何を知っているかよりも、誰に知られているかも重要
■自分のことを知っている人はそれほど多くないが、天の父は完全に僕たちのことを知っていてくださっている