21 Lessons
先日、ユヴァル・ノア・ハラリ氏の「21 Lessons」を読みました。「サピエンス全史」で人類の歴史を俯瞰し、では、これから未来に向かって、かつ、現在どのように生きればいいのかという視点から21 Lessonsが書かれています。人工知能やバイオテクノロジーによる産業の転換期に僕たちの労働がどのように変わっていくのか、そして、どのように向き合えばいいのか、さらにナショナリズムから宗教まで幅広く論じられています。
個人的には「神の名をみだりに唱えてはならない」という十戒の教えに関する章が印象的でした。多くの宗教では、特に一神教(キリスト教・イスラム教・ユダヤ教)では時に人は都合よく神の名を使って、様々な悪行を繰り返してきました。教義の違いなどから、カトリックとプロテスタントの間で殺し合いがあったり、異端者を火あぶりにしたり、十字軍の遠征など、イエス・キリストの憐れみや慈愛からほど遠い行為が繰り返されてきました。
もちろん、すべての一神教信者がそのような思想を持っているわけではないですが、歴史の事実がそうであることに違いはありません。
謙遜であること
そこで、ユヴァル氏は人間に謙遜になるように勧めています。また、人間は愚かであるとも書いています。自分の信じるものはこうだからあとは全部だめ!と排他的になるのではなく、相手に対する思いやりや同情などの心を持つことです。それは言い換えると、刺激に対して、瞬間的に反応するのではなく、刺激と反応の間に謙遜の心を入れるというようにも考えることができると思います。
聖書にも「謙遜は栄誉に先立つ」や「神はへりくだる者と共に住む」や「神が望むのは悔いた心」など神の前に謙遜に歩むことの大切が何度も記されています。しかし、それでも、人間は自分が信じているものを否定されたり、それとは違う教えを耳にした時は反発したくなる、そういう弱さを持っているのだと思います。
異なる宗教と対立した時
僕は以前、キリスト教の正統からは異端視されている集会に知らずに参加したことがあります。何回か参加しているうちに、何か語られていることに違和感を感じるようになりました。そして、いろいろ調べたりしていると、どうも僕が信じている宗派とはいくぶん違う教えを説いている宗教だとわかりました。それがわかってから、僕はその人たちを論破するべく、事前に色々調べたりして、聖書を根拠に説得してやろうと思っていました。
しかし、その集会の当日、おそらく、イエス・キリストが語られたのだと思いますが、「論破するのではなく、私があなたと共にどのように歩んでいるかを証しなさい」という声なき声が僕の心に聞こえてきました。そこで、その集会で僕が証をすると、「〇〇さんは、イエス・キリストと日常的に歩んでいることが知れて、羨ましいです。」とおっしゃいました。この体験は僕の様々な宗教に対する見方とどうふるまうかを大きく変えた出来事でした。
あるクリスチャンが、正直、どの宗教でもいいと思う。と言っていたのを聞いたことがあります。他の宗教におけるある人と神様との関係は誰にもわからないからです。しかし、僕もいっときそのように思っていたことがあるのも事実です。しかし、今は、「この人(イエス・キリスト)による以外に救いはない」という聖書の言葉を信じており、イエス・キリストに救いがあると信じています。