信仰に確信がなければどうすればいいのか? | そもそも確信さえあればなんでもいいのか?

確信があれば何でもいいのか?

昨日は聖書に基づいて様々な主張がありますが、それぞれに確信があればそれでよいということを書きました。もちろん僕は「確信があれば何でもいい」ということを言いたいわけではありません。なぜなら、確信とは結局主観だからです。聖書に記載されていないことで「確信があるから!」となれば、新興宗教の誕生です。

前提は、クリスチャンの信仰とは、イエスキリストが神の子キリストであるというのは聖霊によらなければならないという聖書箇所です。この前提が崩れた確信は全く信じるに値しないでしょう。

コリント人への第一の手紙 12:3
そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。

信仰に確信がない

しかし、クリスチャンであっても「信仰に確信がない」というのはありえます。僕はマウントを取りたいのではなくて、僕自身がかつてそうだったからそういうことがあり得ると思っているのです。僕は小学5年生の時に洗礼を受けました。嘘偽りのない真実な心で受けました。しかし、僕の心には確信がなかったのです。その洗礼は聖霊によらないからなのでしょうか?僕は聖霊によったと確信しています。

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しかし、僕には聖書に書かれているように水のバプテスマだけではなく聖霊のバプテスマが必要でした。

マルコによる福音書 1:8
わたしは水でバプテスマを授けたが、このかたは、聖霊によってバプテスマをお授けになるであろう」。

必死さ

この聖霊のバプテスマとは何でしょうか?僕自身は今も生きているイエス様と出会う体験だと思っています。それは間違いなく信仰に確信を与えるものです。その確信を得るためのヒントが聖書に書かれています。それは「必死さ」です。僕は自分の必死さを誇りたくないですが、当時は藁にもすがる思いで主を求めていました。「本当にいるなら出会ってくれ!!」と求めていたのです。

福音書の時代、確かに群衆はイエス様に出会ってはいました。しかし、イエス様が救い主であるという確信を持った人たちは総じて「必死さ」をもっていました。長血の女、バルテマイ、ザアカイなど「どうしても主に触れたい!触れられたい!」という思いをもっていました。そして、彼ら彼女らは信仰があったのです。

自分には「必死さ」がない

もし、自分には「必死さ」がないと思うなら、こう祈ればいいと思います。「私にはあなたに対する必死さがありません。どうかそれを与えてください」

そうすれば、主は真実で正しい方ですから、非常につらい試練を与えてくださると思います。僕は過去にこのような祈りをして大変後悔したことがあります。しかし、地上での生活がわずかな点であり、天のふるさとでの生活が永遠であるなら、そのリスクを取ってでもそう祈る価値は十分あると思います。

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