聖書は知性の領域とかぶっていることを自覚する | 祈りは純粋に霊的

有言無実行の自分

先日、久しぶりに1時間ほど祈ることができました。「1日に〇〇時間祈るぞ!」と鼻息荒くブログで宣言している割には、実行率が非常に低く、有言無実行の自分を情けなく思うばかりです。自身の今回のケースから「なぜ祈らないのか?」、「なぜ祈れないのか?」について考察してみました。

まず「なぜ祈らないのか?」についてです。祈りは神様とのコミュニケーションです。つまり、祈らないということは神様とコミュニケーションをとる気がないのです。ありていに言えば、イエス様のことなどどうでもいいと思っているからです。「祈らない」という状態は不信仰と同義だとも言えます。

なぜ祈れないのか?

じゃあ「なぜ祈れないのか?」についてです。それは肉が活性化しているからです。驚くべきことに肉と霊は同じ空洞を共用しています。つまり、肉において空洞を満たしてしまった場合、霊における餓え渇きがなくなってしまうのです。これが「祈れないこと」の本質です。

だからこそ、AGERE CONTRA(アジェイラ コントラ)という考え方があります。それは、あえて逆のことをするという姿勢です。肉を満たしたいと思ったら、肉を満たさないという選択をするのです。

空洞を霊で満たしてしまえば

肉と霊は同じ空洞を共用していると書きましたが、これにはメリットもあります。それはその空洞を霊で満たしてしまえば、肉に対する餓え渇きが抑制されるという効能です。これを僕は肉の無力化と呼んでいます。

だから、自分の信仰を振り返って「祈れていないなぁ」と思った場合は、自分の肉を直視する必要があります。なぜなら、肉を直視しないと悔い改めやここから逃れたいという神への渇望には至らないからです。

聖書は誰でも読める

ここでもしかしたら、「聖書を読んでいるから大丈夫!」と思われる方がいるかもしれません。もちろん、御言によって養われることも欠かせません。しかし、聖書は知性の領域とかぶっているということも自覚しなければなりません。

誤解を恐れずに言えば聖書は誰でも読めます。それは、聖書は霊的なものでありつつも、知性の領域ともかぶっており比較的取り組みやすいからです。しかし、祈りとなると違います。そこには必ず信仰が必要になります。そして、自分の弱さや罪と向き合う必要も出てきます。

つまり、霊で聖書を読まずに知性だけで読んでしまっている可能性もあるということです。

主こそ僕の命の源

今回僕の場合も、もれなく悔い改めから祈りに導かれました。祈ったあとは心に自分が思っていた以上の平安で満たされ、主に対する愛が深くなり、新しい命で満たされました。主こそ僕の命の源です。

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