魂が恵まれるかどうか
僕はここ数年でこのように考えるようになりました。それはこのようなことです。
魂が恵まれるかどうかは教会の大小や宗派や教義、あるいは牧師先生の如何に左右されない。むしろ、自分自身と神様との関係が良好か、あるいは主の御心に従っているかにかかっている。
こう書くのは僕が以前は全く逆のことを考えていたからです。つまり、教会の大小や教義の違い、あるいは牧師先生が誰であるかによって自分の魂が恵まれるかどうかが変わると思っていたのです。しかし、ここ数年訓練を受ける中で恵は平日主と交わる中で与えられる恵みで十分であると思うようになりました。
自分で釣りをして魚を食べる
だからと言って「主との個人的な関係が大切だ!だから教会は不要!」というようなことは言いません。なぜなら、実体験として日曜日に教会に行けば確かに恵まれるからです。主の教会に仕え兄弟姉妹と交わればそれは恵まれます。また教会で御言をきき賛美をすれば恵まれます。間違いなく魂はキリストの教会によってはぐくまれます。それは聖書的なことです。この恵みを知っている人に教会に属さないという選択肢はありません。
しかし、過度に教会におんぶに抱っこでもいけないと思うようになったのです。教会は確かにクリスチャンを励まし、力を与え、建て上げてくれる場所でもあります。しかし、それはよく言われるように魚を与えられているだけであって、自分で釣りをして魚を食べることができない自立していない人と似ています。
霊的に息苦しくなってくる
僕は愚かながらも数十年という時間をもかけて、ようやく自分で主の御言を食べる習慣を身に着けました。だから、もし1日主の前に静まって一人部屋で祈る時間、御言を読む時間を持たなかったら、僕は霊的に息苦しくなってきます。そして、主の前に出る時に僕の魂は回復します。それはまさに神が人に息を吹き入れた時に人が生きるものとなったという体験に近いと思います。
主の前に出る時に僕の乾いた魂は潤され、満たされ、命の泉の川が流れ出るようになります。そして、このような状態にあるときに僕は許されている、愛されているという確信が心に溢れます。完全な愛は僕の心から恐れや不安を取り除くのです。
その道はシンプル
このように歩めるように主はすべてを用意してくださっています。その道はシンプルです。シンプルであるからこそ僕みたいなひねくれものには、なかなか見つけることができませんでした。聖書にあるように、幼子の心が答えなのです。あとはかつての僕のようにだらだら意図的に主を選ばないという選択をし続けなければ、その素晴らしい交わりの中に主は迎え入れてくださいます。













