1916_聖書が教えるこの地上での人生観 | 誰の記憶にも残らない虚しい存在

僕の人生もきっと同じ

僕が住んでいるエリアでは数年前から住宅街の新陳代謝がすごいスピードで進んでいます。一階建ての家が横に連なった昔ながらの長屋が多くあったのですが、取り壊されてはマンションやアパートなどが建てられています。

先日も通勤途中にあるあるエリアが取り壊されていました。そこを通った時にこう思いました。

「あれ、ここって以前何があったっけ?」

通勤の度に必ず通るにもかかわらず、当たり前のように存在し意識することもなかった建物は僕の記憶には全く残っていなかったのです。その時に思いました。僕の人生もきっと同じ。

草のごとく

キリスト教徒の人生観については下記御言が参考になります。

詩篇 90:10
われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

詩篇 103:15
人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。

ヘブル人への手紙 11:13
これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。

これら御言にある通り人間の一生は一瞬で終わり、雑草のように枯れるようなものなのです。これは冒頭にあげた全く記憶にすら残らず壊された建物と同じです。言ってしまえば、自分の人生なんて誰かの記憶にもたいして残らないのです。

永遠に続くことにコミット

「いや、私の家族、友人、知人が覚えてくれている。」と思うかもしれません。しかし、そういった存在もやがては死んでいきます。じゃあ、未来の孫に思い出してくれたら嬉しいのでしょうか。そこまでして自分を覚えてほしいのでしょうか。故人を偲ぶにも世代の限界があります。

そう思えば思うほど、僕は二つの気持ちが新たにされます。それは、確かにこの地上の人生は本番ですが、この地上では旅人であり天のふるさとというゴールがあること。そして、だからこそ、この地上での人生を永遠に続くことにコミットしたいという思いです。

デタッチメント

僕はもう40歳です。できることはまだまだありますが、以前よりは確実に減っています。だからこそ、この世のものに執着しないように祈ります。そして、少しずつ、剥がしていくようにあらゆるものからデタッチメント(執着からの離脱)されるように祈ります。

ヨハネの第一の手紙 2:16-17
すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

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