1856_この地上で祈りほどの至福の時間はない | 大きな恵み

祈りとは?

先日から祈りの生活のことを書いています。人によって祈りの生活と言ってもイメージされるものは様々だと思います。そもそも祈り自体のイメージすらも違うことがあると思います。ある人の祈りは願い事を伝えるだけが祈りだと思っているかもしれません。またある人は、何も述べずに静かに主の前に出て黙想することを祈りと思っているかもれません。

はたまた、ペンテコステ派のように異言で祈ること、あるいは、御言を宣言すること、賛美すことも祈りだと思っている人がいるかもしれません。僕自身はこれらすべてが祈りだと思っています。

主と心が一つになる

しかし、より深い霊的な祈りとは自分主体ではなくて、主と心が一つになるものだと理解しています。主と心が一つになることで、主の愛が心に満ち溢れます。そして、主が何を願っているのかがよくわかります。そして、その思いこそが救霊の情熱であることもわかります。

僕がずっと書いている「祈りの生活」とは、このような主と心が一つになる祈りのことを指しています。別の言葉で言えば、個人的な主との深い交わりとも言えるかもしれません。その交わりの祈りには冒頭に挙げたようなそれぞれがイメージするような祈りも包括されています。

祈りの訓練

僕にとっての祈りの深い体験は、ペンテコステ体験にさかのぼります。10代の頃に、何時間も粘り強く主の前に跪いて祈ることを教えられました。確かに聖霊に満たされると異言を伴うと教えられました。しかし、大切なのは異言そのものではないことを知りました。

それから、御言を覚えて宣言する祈りの訓練に導かれました。僕はこの御言を宣言する祈りにだいぶはまってしまいました。なぜなら、本当に御言には力があると確信したからです。何より気分で信仰が浮き沈みするような20代の自分には御言にアンカーを下すということが大切でした。

恵みをもっと味わいたい

そして、僕は今、別のフェーズに導かれているのかもしれないと感じています。それは静かに静まる祈りであったり、とりなしの祈りであったり、もっとより深く主の臨在の中に入っていく祈りが僕には必要なのだと思わされています。

はっきり言えることがあります。それは祈りの時間以外にこの地上で至福の時間はないということです。それは嘘偽りなく真実な心で告白することができます。祈りは神様が人間に与えてくださった驚くほどの恵みです。僕はこの恵みをもっと味わいたいと思っています。

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