1853_本当の謙遜とは? | その人のあり方そのもの

謙遜はやろうと思ってできるものではない

聖書にはクリスチャンがどう生きるべきかが記載されています。その最たるものが第一に神を愛すること、次に自分を愛するように隣人を愛することです。その他、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制などの徳も大切だと記載されています。

マタイによる福音書 22:37-39
イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
これがいちばん大切な、第一のいましめである。
第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。

ガラテヤ人への手紙 5:22-23
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

そういったものの中で僕が最も難しいと思える徳が謙遜です。なぜなら、謙遜はやろうと思ってできるものではないからです。謙遜とはその人のあり方そのものであり、その人自体が謙遜を現わすのです。

卑下しすぎてしまう

僕が難しいと考える理由は二つあります。一つは僕自身が自分を卑下しすぎてしまうからです。もちろん、完全なる卑下ではなくてネタも含まれているのですが、僕はこのブログで自分が如何に最底辺な人間であるかを言語化してきました。読む方にとっては不快だったかもしれません。

しかし、卑下と謙遜は全く違います。なぜなら、本当に謙遜な人は過度に自分を卑下などしないからです。本当に謙遜な人は、神様に感謝して自分に与えられている能力や賜物を十分に生かす人だからです。

現れているものこそが本当の姿

二つ目の理由は、自分がへりくだっていると思っていても環境や状況が変わったら実はへりくだっていなかったということが明らかになるからです。何もない時は謙遜でいられるかもしれません。しかし、自分が軽んじられたり、期待を裏切られたりすることで、自我が出てきて謙遜な心がなくなってしまいます。なくなるというより、そもそも本当の謙遜が身についていなかったのです。

僕はこれまでの人生で自分は謙遜だと思っていた状況で、様々な出来事が起こり、自分が実は謙遜じゃなかったとわかったことが多くありました。自分ですら、まさか自分がこんな反応をするんだと驚くほどでした。しかし、現れているものこそが本当の姿なのです。

体験していない

僕はまだまだ本当の謙遜がどのようなものであるのかを体験していません。しかし、主に少しでも近づくために謙遜やへりくだりの訓練を受けたいと思っています。

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