御言に立つ
僕は若かった頃、教会のいかんによって自分が恵まれるかどうかが変わると間違って理解していました。ある教会では恵まれるがある教会では恵まれないとかそんなことを思っていたのです。しかし、今はそんなことは思っていません。なぜなら、それは自分の主観に過ぎないからです。
しかし、御言に立つならば「主は昨日も今日も、いつまでも変わらないお方」であることがわかるようになりました。御言に書いてあり、それを心に留めて、信じたいと強く願い、それに聖霊が働かれるならば御言によって自分が造り変えられていくということを経験しました。
自然と他責になる
しかし、このような戦いがあることを自覚しなければなりません。それは僕たちの肉は油断すれば自然と他責になるという残念な事実です。自分のことは棚において、「教会がこうだから」とか「あの人はああだから」と自分の目は梁があるのに他人の目にあるちりばかりに目がいくようになるのです。
これは厳しいことかもしれませんが、少しでもそのような状態になったら、主と共に生きることはできません。なぜなら、主は聖いお方だからです。もし、主と共に歩みたいと願うならば主の十字架に立ち返り悔い改めなければなりません。
自称クリスチャン
僕は一時期、主と共にいる状態でないにもかかわらず、主と共にいると思っている時がありました。当時、僕の心の中には人を赦せない思いや苦々しい思いが満ちていたのです。しかし、そうであっても自称クリスチャンです。自分は主と共に生きていると思っていたのです。むしろそうだと信じたかったのです。
しかし、聖書には主が共にいると思っていたが実はいなったという事実も書かれています。サムエル記上4章にそのことが書かれています。またサムソンも同じような失敗をしました。主は離れてしまっていたのです。
正しい理解
このことを考える時に注意すべきことは「主が共におられる」という言葉の正しい理解です。間違った理解は主を自分のほうに引き寄せようとします。正しい理解は主がおられるところについていこうとします。
僕は本当に残念ながら長い間、前者の理解をしていて後者の生き方をできていませんでした。その生き方は自己中心、自分勝手、自分さえよければいい、恵まれたい、祝福されたい、自分のことしか考えていなかったのです。
しかし、後者の生き方になってから、恵まれたい祝福されたいということよりも主の思いを知りたい、主と心一つになりたいと思うようになりました。それから少しずつ変えられていったと思います。













