1717_ふとした時に虚しさを感じる原因

ハリがない

最近の自分の生活を振り返ってハリがないと感じています。仕事も家庭も教会活動も順調にはしています。ただふとした時に心の中に虚しさがあることに気づくのです。確かに仕事もやりがいを感じているし、子育ても楽しいし、教会での奉仕も兄弟姉妹との交わりも恵まれます。しかし、何か虚しさを感じるのです。

このような状態において決定的な原因となっているのは「主との交わりの欠如」です。しかし、それだけなのかと思いめぐらせていたところあることに気づかされました。

主にあるビジョン

今の僕に欠如しているのは「主にあるビジョン」だと思っています。昨日は30代の10年間を振り返ってみました。さらにその前の20代はまさにビジョンに向かって突き進んでいました。進路に悩んでいた時、道が示されたのは中国の地下教会について書籍で知ったからでした。

それ以降、僕の人生の中心は中国の地下教会にあり、そこを目指して生きていました。当時は中国の地下教会で布教活動をして殉教するとさえ思っていたのです。若さゆえの無謀さ、怖いもの知らず、やれば何でもできるだろうという根拠のない楽観によって大きな目標に向かって歩んでいたように思います。

幻のない民は滅びる

今はどうか?確かに僕には今与えられている責任と役割があります。しかし、やはり「主にあるビジョン」がないと感じているのです。生活にハリがない。またふとした時に虚しさを感じるのは肉にあって歩いているからです。僕の霊を奮い立たせるようなビジョンがないことが原因だと思ったのです。

聖書にも「幻のない民は滅びる」とさえ書いてあります。それほど、主から与えられる幻、ビジョンは生きる上で重要だということです。

救霊の情熱のゆえに流す涙

現時点でわかっていることがあります。それは、主にあるビジョンの根底には必ず「救霊の情熱」があるということです。そして、その救霊の情熱は僕にはありません。だからこそ虚しさを感じるのだと思います。

当然、僕としては明確な大きなビジョンが与えられることを望みます。しかし、たとえ、そうでなくても主から救霊の情熱は頂きたいと思っています。わざわざ言語化しなくてもいいかもしれませんが、僕の中には最も大切な人を愛する愛すらありません。

今、もう一度、自分が愛されていると涙するためではなく、救霊の情熱のゆえに流す涙を与えてほしいと願います。

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