1565_「幼子の信仰」から「青年の信仰」へ

信じるということ

僕は小さい頃、自身がクリスチャンホームで育っていながらも「信じる」ということが実際どういうことなのかよくわからずにいました。それは、神様の存在が身近であり、目に見えないものを信じるのが当然の環境で育ったからです。

確かに子どもの時にも信仰はありました。なぜなら、神様の存在を当然だと思っていましたし、日常的に祈っていたからです。だから「幼子の信仰」はあったのです。

信仰の次のステップ

問題は、幼子の信仰から次のステップにいく段階で起こります。理性が発達し、自我が芽生え、第二成長期に差し掛かる時に少なくないクリスチャンホームの子どもは教会を離れます。だいたい中学校あたりでこの問題にぶち当たります。

この段階では「幼子の信仰」は全く約に立ちません。なぜなら、人は成長しており、もう幼子じゃないからです。青年なら「青年の信仰」が必要になります。もし、青年なのにまだ幼子の信仰しかないのなら、「日曜日はクラブ行ったほうがいいよね」とか「自分のしたいことしたらいいよね」となるのです。

成長に必要なこと

信仰も年齢に応じて成長しないといけません。成長には二つ必要だと思います。一つは、聖書を学び理性によって聖書の知識を身に着けること、二つ目は、祈りによって個人的に生きたイエス・キリストに出会う体験をすることです。

この「幼子の信仰」から「青年の信仰」にステップアップする段階で必要とされるのは、自由意志です。自分の意思によって学ぶことを選択し、祈ることを選択することこそが信仰なのだと思っています。なぜなら、親や教会の人を喜ばせるために宗教行事をするのに信仰はいらないからです。言われて教会に行く、怒られるから教会に行く、言われるから祈る、というのに信仰はいりません。

イエス様との個人的な関係

僕は今子育ての中にいますが、この二つの段階を念頭に入れて教育をしないといけないと思っています。まずは、こどもの「幼子の信仰」を大切に育むことです。この「幼子の信仰」の段階では親が子供を教会に連れて行くということは必要だと思っています。

そして、聖書の知識も大切ですが、なによりも生きたイエス様との個人的な関係を知ってほしいと祈っています。なぜなら、このイエス様との個人的な関係こそが、青年期の信仰に大きな影響を与えると思っているからです。

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