お通夜のような気持ち
昨日に続けて自身の置かれている試練について書きます。今お腹の中にいるこどもは生まれたと同時に亡くなる可能性が高いと言われています。そのような状況の中で日常生活は変わらず過ぎ去っていきますが、毎日嫁さんと僕の心の中はお通夜のような気持ちです。出産の予定日まで3か月あります。この3か月がとてもつらいです。
嫁さんがこのように言っていました。
「おなかを痛めて生んだとしても、その子がすぐに死ぬかもしれないという現実をいまだに受け入れられない」
イエス様の生涯
そのようなことを思っていた時にイエス様の生涯を思い出しました。イエス様は生まれてからずっと自分が十字架で殺される未来に向かって生きておられました。それは3か月どころじゃありません。33年間、生きている間ずっとです。
イエス様は神様だから恐れがなかったでしょうか?いいえ、違います。主は完全な神であり、また人でもあったのです。主はこのように祈られています。
マタイによる福音書 26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
主の心と一つになりたい
僕はわずか3か月でさえもこのつらい期間を受け入れがたいです。しかし、主は33年の間ずっとそのつらい期間を過ごされていたということを僕は気づいていませんでした。イエス様が間もなく自分が十字架で殺されるという状況の中で、弟子たちが誰が一番えらいか?という頓珍漢な議論をしていた時、どのようなことを思っておられたのでしょうか?
僕は主の心と一つになりたい。主と一つになりたい。主の御心を知りたいと思っていました。しかし、僕は主の心を全然わかっていなかったのです。自分が楽しむこと、喜ぶこと、幸いであることばかりを追求していたのです。
天の父に拒絶されるほど
主はゲッセマネの園でできれば十字架の道を歩みたくないと天の父に祈られました。その結果はどうだったでしょうか?
マルコによる福音書 15:34
そして三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
イエス様は天の父にも見捨てられるという経験をされました。それはイエス様が天の父に拒絶されるほど僕の罪が大きかったからです。それは、僕がもう二度とキリストにあって天の父に見捨てられることがなくなるためです。