間違った声と間違った場所
昨日に続けます。自分は間違った声を聞き、間違った場所にいました。しかし、主は語り掛けてくださいました。その語りかけは、アダムに対する言葉のようであったかもしれません。
主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
創世記3:9
あるいは、エリヤに対するような言葉であったかもしれません。
その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
列王記上19:9
血潮の力を宣言する祈り
その時、僕ははじめて自分が間違った場所にいることに気づきました。それは悪魔の言葉の上に自分が立っていたということでした。僕は下記のような悪魔の言葉に完全にやられてしまっていたのです。
「主はお前を罰しているんだよ。そうじゃないとなんでこのようなことが起きる?クリスチャンでもこのようなことは起こるんだよ。そしてこれからも起こり続ける。見えるところを見たらいい。現状はどうだ?主はお前の祈りを聞かれたか?それがこたえだろう。」
そこで以前買って読んでいた「血潮の力を宣言する祈り」の書籍を思い出しました。御言によって悪魔の言葉の呪いから解放されないといけないと思いました。
望み得ないのに、なおも望みつつ信じた
次に自分は見えるところに立っていたということにも気が付きました。確かに見えるところの状況は変わらないどころか悪化しています。しかし、それは見えるところであり、事実です。僕は見えたいところに目を注ぐべきだと思いました。そして事実ではなく真実を見るべきだと思いました。その時にこの言葉がやってきました。
彼はこの神、すなわち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。 彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。
ローマ人への手紙 4:18
僕はここで当たり前ですが自分の信仰とアブラハムの信仰を比べてはいません。信仰者とは望みえないのに信じる者ということに目が開かれたのです。
心のドアを開けると
僕の今の状況は見えるところによれば、事実によれば、人の言葉によれば、望みえない状況です。しかし、僕はそれはキリストにあって無視してもいいと思えたのです。その時に僕を縛り付けていた鎖がばらばらと外れ落ちるのを感じました。
今日は久しぶりに一人で主の前に出ました。何を祈っていいのかわかりませんでした。しかし、僕が心のドアを開けると主はすぐに僕の心の中に入ってきてくださいました。たしかにこの言葉は確実です。
これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
ヨハネによる福音書 16:33