1533_約500年後に成就したヌンの子ヨシュアの預言

列王記上16章34節

昨日は聖句の類似度を計算するアプリケーションを公開しました。その精度確認で、列王記上16章34節をテスト聖句として試しました。この時代はすでにイスラエルはユダとイスラエルに分裂しており、主を全く恐れない王が国を治めるということが続いていました。その程度は神を恐れないどころか異国の神を崇拝していたのです。

彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ
列王記上 16章31節

ヨシュア記6章26節

そこから数節進んだところに該当聖句が現れます。

彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。列王記上 16章34節

僕は恥ずかしいながらこれまで何度もこの箇所を読んでいたにもかかわらず、はじめて?が頭の中に起きました。それは、なぜ列王記上にヨシュア記のヨシュアが出てきているのだろう?と思ったからです。そして引照箇所を見ると確かにヨシュア記6章26節が書かれていました。

約500年後に成就

ここにはこのような事が書かれています。

ヨシュアは、その時、人々に誓いを立てて言った、「おおよそ立って、このエリコの町を再建する人は、主の前にのろわれるであろう。
その礎をすえる人は長子を失い、
その門を建てる人は末の子を失うであろう」。

つまり、ヨシュアがエリコを攻略した時の預言が約500年後に成就したのです。それは、ヒエルがエリコの町を再建したからです。預言のとおり、基を据えた時に長子、門を建てた時に末の子を失ったのです。

神の言はあなどれない

僕はこの事実を知った時に恐れを覚えました。それは本当に神の言はあなどれないということを改めて知ったからです。たとえ、500年経っていたとしても神の言は変わらないのです。また生死に関しても躊躇ありません。御言どおりに粛々と実行されるのです。

新約聖書が書かれてから約2000年が経過しましたが、神の言は決して変わりません。

僕はその事実を本当に理解できて神の言を恐れているのか?神を恐れているのか?と自問することになりました。

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