1518_肉において幸せだと思い込んでいただけにすぎない

忘れがたいほどの幸いな時期

僕が39年生きてきた中で決して忘れることができない重要な期間が2つあります。一つは浪人していた時期、もう一つは会社を辞めて中国に行っていた期間です。忘れることができないのは決してつらかったからではなく、幸いだったからです。

浪人、退職して中国と考えると大変なように思います。しかし、困難な状況は往々にして人を主のもとへと導きます。

自分から心を尽くして主を求め始める時に本当の意味で幸いな人生がはじまります。

受け身の信仰

僕は幼いころから教会に行っていたので、主から離れたという時期はほとんどありません。中学時代、クラブ活動が日曜日にある時も必ず礼拝二部や夜の礼拝に行くように言われて行っていました。高校時代、自分のやりたいこと好きなことをしていましたが、日曜日を休むという日はありませんでした。

それは一見、信仰があるように思えます。確かにその期間にあっても主は確かに導いてくださっていたと思います。しかし、その信仰は受け身であり、本当の信仰は自分の中にはなかったと言わざるを得ません。

人生のターニングポイント

自分の信仰が確立されたのは自分から心を尽くして主を求め始めた時でした。それが自分の人生のターニングポイントになったのです。

しかし、正直に話せばそのターニングポイント以降、ずっと主により頼んで主を熱心に求め続けて生きることができたわけではありません。自分の中におこった慢心、気の緩み、甘え、自己中心性から主を積極的に求めなくなった時期もありました。はっきり言えることはそういった時期は自分では幸せだと思っているだけで実は全く幸せではなかったということでした。

幸せだと思い込んでいただけ

最初にも書いたように忘れがたいほど幸いな時期だと思っていた時は、だいたい大変な時期でした。しかし、それは主の恵みです。主が僕を正しい位置へ戻させてくださるための愛の現れだったと思います。そういう時に、自分が大切だと思っていたことは実はただたんに自分が肉において幸せだと思い込んでいただけにすぎないということを知ります。

主によって通らされる中で、主を心から求める中で霊が研ぎ澄まされてきます。そうすると、自然と自身の生活の中で選別が行われ不要だったものが廃棄され、大切なものだけが残るようになってきます。それによって魂が洗われ、きよめられ、より深い主との交わりの中に入っていけるようになると信じています。

あなたがたの中には、以前はそんな人もいた。しかし、あなたがたは、主イエス・キリストの名によって、またわたしたちの神の霊によって、洗われ、きよめられ、義とされたのである。
コリント人への第一の手紙 6:11

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