それぞれが主を見上げる時
クリスチャンの夫婦として歩んでいて素晴らしいと思うことがあります。それは夫婦が主にあって一つになるということです。当たり前ですが僕は結婚する以前はそれがどういったものなのか、全く想像がつきませんでした。クリスチャン夫婦に関してはよくこんなことが言われます。
「夫婦はお互いを見つめ合う時ではなく、それぞれが主を見上げる時に主にあってひとつになれる」
僕は頭では理解していましたが、その素晴らしさをこれまでわかっていませんでした。
夫婦が一つになること
実際、深い領域で夫婦が一つになるのは相当困難なことです。もちろん、趣味や娯楽などの領域では一つになれるでしょう。共通の趣味があればそれで一つになれるからです。しかし、僕たちの心、魂という深い領域、自身が意識さえできていない無意識の領域において一つになるのは、現実不可能なことです。
それができるのはただ一人のお方です。主が夫婦一人ひとりの心の中に住んでくださり、夫婦一人ひとりが主を見上げるならば本当に主にあって一つになることができるのです。僕はこの喜びは天のふるさとに帰った時に味わえる前味のようにも思いました。
宝石のように美しいもの
礼拝は素晴らしいです。主がご臨在される礼拝もすばらしいです。火を吐くような燃やされる説教も素晴らしいです。それらは隠されていません。しかし、夫婦がキリストにあって一つになるという真理は見つけなければなりません。それは宝石のように美しいものです。
教会における兄弟姉妹との交わりは素晴らしいです。それはその中に主がご臨在くださるからです。それらは隠されていません。しかし、密室の祈りの中で主と個人的に深く交わるという真理は見つけなければなりません。それも宝石のごとく美しいものです。
主と一対一の関係において
僕はこれまでパフォーマンスを重視していたのかもしれません。主のためにどれほどのパフォーマンスができるか?そのために祈り、準備し、取り組んできました。しかし、主が望んでおられるのはパフォーマンスではありません。なぜなら、主と一対一の関係においてパフォーマンスなどする必要はないからです。
夫婦関係も同じです。パフォーマンスはいりません。なぜなら、それぞれが主との一対一の関係において二人は一つになることだからです。