1512_1秒たりとも自分では立つことはできない

1秒たりとも

最近教えられていることは主により頼まなければ、1秒たりとも自分では立つことはできないということです。救われてからもこういった信仰をもっていたことはありました。しかし、自身が成長するにつれ、自分でできることが増え、持っているものが増えるにつれ、そのような信仰は次第に薄れてきていたように思います。

しかし、今一度、そのような信仰に立ち返らせて頂いています。僕は今、主によらなければ夫としても、父としても、社会人としても経ち続けることはできません。

傲慢さに主のメスが入った

これはどこかで借りてきた言葉でもなく、謙遜でもなく自身の体験として心の底からそのように思っています。主の助けがなければ1秒たりとも立つことはできない。それはつまり、1秒たりとも生きていることができないというような状態です。

僕はそれまで自身がそこまで脆い、弱い存在であるとは思ってもいませんでした。まぁなんとかできているし、普通に社会人生活も教会生活も遅れているから僕は大丈夫だと思い込んでいたのですしかし、様々な道を通らされる中で、その傲慢さに主のメスが入ったのです。

喉が渇いてどうしようもない

僕はこれまでもずっと自分の信仰生活を変えたいと思って生きてきました。そのために祈る時間を何としてでも確保したり、それを習慣に落とし込むということをしてきました。そして、定量的に1日〇〇時間祈るというようなことも目標として掲げてきました。

ところがどうでしょうか。「1秒たりとも自分では立つことはできない」という状態になると、1日に何時間祈るとか目標とか時間を何とかして確保するとかそういったことを意識する間もなく、魂が勝手に主を求めるようになります。それは喉が渇いてどうしようもなくて水を探すような状態に似ていると思います。

片手間で主のために仕える人生

僕はこれまでは「主だけが望みです。主だけが必要です。」と言いながらも、実際の行いにおいては他のものに望みもおき、他のものも必要としていました。今はそれら一切は糞土にすぎないと思わされています。本当に主だけが希望であり、命であり、渇望の対象です。

僕はこれに気づくのが遅すぎたと思っています。もう39歳にもなるのに、それまで自分のやりたいこともやって片手間で主のために仕えるというような人生を生きてきたことを心の底から悔いています。

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