1481_厚かましくも主の前に出ることができる方法

不真実さに絶望

最近は自身のイエス様に対する不真実さに絶望を感じています。一方、イエス様はいつも真実なお方です。そして迫りくるほどの愛で愛してくださいます。このギャップが非常につらいです。イエス様が真実を表してくださっているように僕もいつもイエス様に真実でありたいと願っているにもかかわらずその生き方は全く不真実なのです。

このような状況では二つの選択が与えられます。一つは「悔いる」こと、もう一つは「悔い改める」ことです。

ギャップに苦悩

自身の不真実さとイエス様の真実さのギャップに苦悩した人物にユダがいます。彼はイエス様の愛に対して裏切りで応えました。これ以上のギャップはないでしょう。彼はイエス様を裏切った時に「悔いる」ことだけをして自殺したのです。

しかし、ペテロは違いました。彼は悔いるだけではなく、「悔い改める」ことをしたのです。彼もイエス様の愛に対して裏切りで応えたという点においてはユダと同じです。しかし、彼はそれでも、イエス様の愛にすがり続けたのです。これが人生を決する分かれ道となったのです。

神様の愛(アガペー)

イエス様は人間が理解できないほどに、いつも人の失敗ではなくて「改めることからの可能性」を見てくださっています。なぜそんなことをされるのかは人間には全く理解できません。愛される資格も憐れみを施される資格も恵みや祝福をもらう資格もないのに、「あなたにあげよう」とおっしゃるのです。これは人知をはるかに超越しています。人はこれ神様の愛(アガペー)ということしかできません。

人間にできることは一つです。それはたとえ自分の不真実さに絶望することがあっても、ペテロのようにイエス様の愛にすがり続けるということです。もし自責の念に囚われてしまい自分には資格はないと思うのなら、それはサタンの思うつぼです。

ある種の厚かましさが必要

誤解を恐れずに書くならば、神様の恵みにあずかるためには、ある種の厚かましさが必要になる時があると思います。しかし、その厚かましさには前提があります。それはまず十字架の前に立つということです。十字架の前とは、人が低くなる場所です。また悔いて崩れる場所です。十字架の前に立つならば、今まで何万回と聞いてきたように本当に「罪が赦される」体験をするのです。

あえて書くのであれば、十字架抜きに厚かましい人はただの厚かましい人です。主の前に出ることはできません。これが聖書の原則です。しかし、もし、十字架の血潮の力にあずかるならば、本当に厚かましくも主の前に出ることができるのです。それは不正な裁判官にしつこく訴えたやもめのような厚かましさかもしれません。

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