私は自分が住んでいるマンションを、「バベルの塔」と呼んでいますが、名づけ親は私ではなく、以前の日本人の同僚です。ちなみに、彼はクリスチャンではありません。
塔の建物について言いますと、突発的な断水、水道管の耐久性のなさ、エレベーターの安全管理のずさんさ、衛生管理。また、塔の住民について言いますと、周囲を無視したエレベーター内での喫煙行為、犬の飼育に対する飼い主のモラルのなさ、夜中に聞こえてくる叫び声、痴話喧嘩などこうした光景が彼の目には、「混乱」と映ったのかもしれません。
バベルという言葉は、まさに混乱という意味で、ノアの箱舟の出来事以降、人間が高慢になり、一致団結、天にも届きそうな塔を作ろうとしましたが、結局、そのことが神の逆鱗に触れ、それまでひとつしかなかった言語が、多言語化し、意思疎通ができなくなったため、計画が中断されたと、創世記には記されています。
私は先週、ある耐え難い、恥ずかしい出来事から、自分はキリスト者といいながらも、自分の心の中に、「巨大なバベルの塔がそびえ立ている」の見ました。キリスト教の人は、あらゆる選択項目の中から、順位を決定するにあたり、創造主なる、救い主なる神が、最高位に置かれなければならないとされています。
まず神の国と神の義とを求めなさい。
この順序が守られないとき、混乱は発生します。私はキリスト者でありながら、自分の中に、二つの思いが共存していることを知っています。神を無視して、高慢に生きたいという思いと、神を第一にして、神と生きたいという思いです。
神の存在を無視して、バベルの塔を建設するように、上へ上へと上がりたいという思ってしまい、キリストが歩まれたような、低くされる道、へりくだる道は価値がないと、思ってしまうことがあります。
私は失敗もするし、弱く、恥ずかしいキリスト者だと思うことが多くあります。それでも、それでも、私は諦めずにこの道を歩んで生きたいと思う。
主の名は堅固なやぐらのようだ。正しい者は、その中に入り込んで救いを得る。
私はバベルの塔にではなく、堅固なやぐらであるイェスの名に逃げ込む。
カナンの地は今日も輝いています。