主に教えられていること
ここ数か月、主に教えられていることがありあす。それは「すべて恵み」ということです。僕は愚か者なので教会の奉仕ややることが多くなってくると律法主義に陥ってしまいます。準備を十分にしないといけない、祈って主から教えていただかないといけない、などです。
それは一見もっともな主張にも思えます。主のためには自分の分を全うし主に近づくということは要求されて当然と思うからです。しかし、問題は愛を動機としてない場合があるということです。それは律法主義であり、ただの宗教行事になってしまうのです。
私はあなたを喜ぶ
ここ数か月、僕は主の前に自分が納得するようなパフォーマンスを出せていません。主を思う心はあるけれど、自分を思う心もあり、その結果、自分が納得いく信仰生活が送れていなかったのです。しかし、それは結局自分が納得するかどうかで主体は自分にあったのです。
主はそのような僕にですら恵みを教え続けてくださいました。僕は主に仕え続けることはできないし、ふさわしくないし、そのような器ではないと思っていても、主はいつも、
「私はあなたを喜ぶ」
とおっしゃってくださるのがわかりました。そして、実際に奉仕をする中で、確かに主が共にいてくださっているのがよくわかりました。
十字架によって義とされた状態の僕を見ておられる
僕は本当に「すべて恵み」だと思いました。僕はずっとこう思っていました。
ペンテコステの日以前にイエス様の弟子たちが福音書で人間らしさを出して失敗するのはわかる。なぜなら、彼らはまだ聖霊を受けていなかったから。しかし、僕は恵みの時代に生きており、ペンテコステも既に経ている時代を生きている。だから彼らの当時の失敗と自分を比べることはできない。僕はなんて弱い存在なのだろうと。
しかし、イエス様の愛は僕を包みこみました。イエス様は僕が何ができるか?を見ておられませんでした。ただ、イエス様の十字架によって義とされた状態の僕を見てくださっていました。その眼には僕は高価で尊いということでした。
愛を捧げられるようにする
もう12月になりました。これからきっとクリスマス行事で忙しくなるでしょう。しかし、このことだけは忘れないようにしたいと思っています。主に仕えることができるのはすべて恵みであるということ。そして、イエス様に感謝して、僕がイエス様に対して抱いている愛を捧げられるようにする。この2点です。