「ごめんなさい」と言う言葉
最近、2歳の子供がよく「ごめんなさい」というようになりました。以前は何か悪いことをした時に「ごめんなさいは?」と言ってもなかなか謝ろうとしませんでした。「ごめんやさい」という絵本を読んだりして悪いことをしたらそう言うんだよと教えてきました。
しかし、2歳といえどもしっかり自分というものを持っていて、謝りたくない時は謝らないというようなスタンスで「ごめんなさい」と言えるけれども言わないという感じでした。
判別がつかない
ところが、最近は謝らなくていいことまで謝るようになりました。謝らなくてもいい時は、「そいういうときは、『ごめんなさい』って言わなくてもいいよ」とか「だいじょうぶだよ」と言ったりしています。
嫁さんは普段怒りすぎているからかもと心配していました。そもそも、2歳の時点では何が謝るべきことなのか、何が謝らなくていいことなのか、その判別がつかないようです。
ですので、今の段階はとりあえず自分が悪いことをしてしまったと思った時は「ごめんなさい」というようにしているみたいです。
子供の成長には段階がある
子供の成長には段階があるので、謝ることを頑なに拒否する時期があったり、最近のように何でも謝る時期があったり、自身で判断して謝るようになる時期などがあるのだと思います。
その一方で僕はどうでしょう?嫁さんに謝らないといけない時にきちんと声を出して「ごめんなさい」と言えてるでしょうか?何よりも、神様の前に悔い改めることがあった時に心から霊の領域において言えているでしょうか?
「ありがとう」というのは比較的簡単
生きていて思うのは「ありがとう」というのは比較的簡単です。感謝を述べることに引け目は感じないからです。嫁さんにも神様にも日々感謝し、事あるごとに感謝を伝えている気はしています。
しかし、「ごめんなさい」は違います。僕の元来の古い性質は自分の非を認めることに抵抗するのです。自分は悪くないとか自分はましだからとか、嫁さんはどうのこうのとか他の人はあーだからとか、すぐに言い訳を見つけて謝らなくてもいい一見合理的と思える理由を見つけるのです。
関係を回復させる言葉
しかし、「ごめんなさい」と言う言葉は、関係を回復させる力があります。そして、新しい関係を築き上げるスタートにもなります。
「ごめんなさい」と言うかどうかは、自分が柔らかい心をもつか、心を頑なにして閉じるかのいずれかで決まります。だから、今日も僕はイエス様に言いたいと思います。
「イエス様、僕にはあなたに喜ばれない生き方をしていることを知っています。ごめんなさい。どうかあなたが喜ばれる生き方を選択できるように日々お助けください。」