1292_恥の多い人生を送ってきました

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罪とは?

罪と聞けば、この世において法律に抵触することを思い浮かべるかもしれません。強盗したり殺人したりとそれらは目に見えるものです。それらを守っていればまぁ相対的にもましな人間だろうと思えるものかもしれません。これは狭義における罪です。

しかし、イエス様はその罪を心の領域にぐっと広げました。それは目に見えない心の中で起こる思いも罪だと指摘されました。たとえ、殺人を犯していなくても誰かに怒ったり憎んだりするのであればそれは殺人を犯したのと同じだとおっしゃったのです。

たとえ、見える行為における性的な罪を犯していなかったとしても心の中で情欲を抱いて女性を見るならばそれも罪だとおっしゃいました。そう思うとこの世の男性は僕も含めてほぼ一発アウトだと思います。

的外れとは?

また罪とはギリシャ語でハマルティアと言い、的外れな生き方であるとも言われます。罪とは何か悪いことをしたり、悪いことを思ったりするだけではなく、そもそも状態であるというのです。

的外れとはイエス様のほうを見ない生き方であり、神様なしで生きていけると思う傲慢な人間の状態です。たとえ殺人をしていなくても、たとえ情欲を抱いて女性を見ていなかったとしても、バベルの塔よろしく、神さまなんかいなくても生きていけると思っている状態こそが罪なのです。

相手がいて初めて抱くもの

さらに罪について考えました。そもそも罪の本質とは恥でもあります。アダムとエバが罪を犯した瞬間から彼らは恥というものを初めて知りました。これまでは裸でいても何も思わなかったのに裸の状態が恥ずかしいと思うようになったのです。

この恥というのは相手がいて初めて抱くものです。なぜなら、家で全裸でいても何も恥を感じないからです。しかし、相手がいる時に恥を感じるものなのです。

罪の本質とは?

罪の本質は恥でもあります。もしかしたら、誰でも誰にも言えない、誰かに知られてしまったら恥ずかしい秘密の一つや二つがあるかもしれません。普通に考えたらそれは自分だけしか知らないことなので、何も恥を感じる必要がないかもしれません。

僕が幸いだと思ったことは、僕のこの恥を知っておられるお方がいるということでした。確かに神様に自分の恥ずかしいところを知られていると思うのは嫌なことかもしれません。しかし、それ以上に、誰も知らないこの恥を知っているお方になら、自分の恥をつつまず述べて悔い改めができると思ったのです。

そして、主はその誰にも言えない恥を見て糾弾されませんでした。むしろ、その恥を負って十字架に架ってくださったのです。

あなたは聖い

僕が今救われて幸せだと感じるのは、主の前に恥が取り去られたからです。太宰治は人間失格の冒頭で恥の多い人生を送ってきましたと書きましたが、僕自身本当にその通りに生きてきました。

しかし、ただイエス様の十字架の恵みによってすべての恥が取り除かれて、「あなたは聖い」とおっしゃってくださっているのです。神様はおっしゃいました。「神がきよめたものをきよくないなどと言ってはならない。」

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