パレスチナ地方が注目されている
先日、NHKスペシャルで「エルサレム」という2004年に放送されたドキュメンタリーを見ました。パレスチナ地方で緊張が高まっている中で、なぜこのような事態になったのかが歴史的背景と双方の当事者によるインタビューによって明らかになっていました。
内容としては、パレスチナ寄りでもイスラエル寄りでもなく、また感情に訴えるようなこともなく、地味な構成でしたが、これぞドキュメンタリーというような骨太の番組でした。
エルサレムは3つの宗教の聖地になっていますが、第一次世界大戦前、エルサレムではユダヤ教、イスラム教、キリスト教が対立し合うことなく、共存していたようです。
キリスト教の儀式に必要な鍵は代々イスラム教が管理することになっていましたが、それでいても、暴動が起こるわけでもなく、双方の協力によって儀式が行われていたそうです。これは僕も初めて知ったことでした。
歴史に翻弄される民族
しかし、2度の大戦を経て有名なイギリスの3枚舌外交のせいで、イスラエルとパレスチナは対立し合うことになります。さらに国連主導でパレスチナ地方の分割案が一方的に提示され、イスラエル建国を認めますが、何千年もパレスチナに住んでいた人たちが納得いくわけがありませんでした。
建国の翌日、第一次中東戦争が勃発、その後も度々周辺国で紛争がおきましたが、圧倒的なイスラエルの軍事力でイスラエルは当初の分割案よりさらに多くの領土を手にすることになりました。
その後は、イスラエルはパレスチナ地方からそこに確かに数千年存在していたイスラム教の人たちの痕跡を完全に消し去ります。そして、旧約聖書に基づく、徹底的な愛国教育によりイスラエルの正当性をより強固にしてきました。
聖書を知るにはユダヤ人を知る必要がある
僕はこのドキュメンタリーを見て多くの学びを得ました。一つ目は融和していた時代が確かにあったということです。しかし、大国の思惑により利用された民族が憎しみ合うようになったのです。
二つ目はユダヤ人の逞しさです。建国前にユダヤ人がパレスチナ地方に移り住み始めた時、彼らは荒野に住むしかありませんでした。しかし、沼地にユーカリの苗を植えるところからはじめ、時間をかけて荒野を人が住めるところにしたのです。それはまさしくイザヤ書に書かれているようなことでした。
しかし、ついには霊が上から
われわれの上にそそがれて、
荒野は良き畑となり、
良き畑は林のごとく見られるようになる。
イザヤ書32:15
荒野と、かわいた地とは楽しみ、
さばくは喜びて花咲き、さふらんのように、
さかんに花咲き、
かつ喜び楽しみ、かつ歌う。
イザヤ書35:1-2
その時、足なえは、しかのように飛び走り、
おしの舌は喜び歌う。
それは荒野に水がわきいで、
さばくに川が流れるからである。
イザヤ書35:6
キリスト教徒はこれらの予言がイエス・キリストの罪の許しによって、心や魂の荒野に起きることとしても理解しています。しかし、聖書を理解するにはユダヤ人のことを知る必要があると思いました。