法に抵触する悪
確かにこの世界には絶対的な悪が存在しています。絶対というのは法律のことを指します。この世界では法のみが絶対であり、法を犯す者は法によって悪とみなされます。しかし、当然のことながら、地上の法には限界があり、現れた行為しか取り締まることができません。言ってしまえば、もし、万引きをして見つからなければ、法を犯したとしても裁かれることはないのです。
しかし、消せないものがあります。それは自分だけは法を犯したことを「知っている」ということです。人間に良心が与えられている以上、自分の良心が自分を裁くこともあります。
心で反射的に起こる犯罪
一方で現れない行為はどうでしょうか?これは人の心の中だけで現れるものです。言葉や顔や態度に出さない限りは誰にもばれることはありません。もし、心の中の声が誰にでも聞こえるような世界になったら、きっと誰もが孤独な存在になるでしょう。
何かの刺激に対して、心の中で沸き起こる声はほとんどの場合避けられないものです。イラっとしたり、不満に思っていることが、思った瞬間に相手に聞かれてしまうのであれば、最も大切にしている人でさえも離れていく可能性があると思います。
法に抵触しない犯罪
クリスチャンは、自分が心に悪いことを思っていることを自覚するだけでなく、神がすべてをご存知であるということも知っています。たとえ、良心が裁かなくても、神が裁かれることも知っています。
この世には知るべきことと知らないでいいことがあります。クリスチャンがもっているこうした知識はただ単に罪悪感をマシマシにして生きづらくなると思う方もいらっしゃるかもしれません。
しかし、クリスチャンは自分の心の中がどうしようもないことも知っており、またすべてをご存知である方をしっているからこそ、祈ることができます。
人を自由にするもの
37歳のおっさんの僕でもこのようにいのることができます。
「私は本当に心の汚い人間です。建前はニコニコしているのに、本音はむかむかしたり、苦々しい思いを抱いているのです。主よどうか、このような私をゆるしてください。そして、あなたご自身が私のうちに住まわれることによって自由にしてください。」
心の中のことは決して法に抵触するわけでもなく、法によって裁かれることはありません。しかし、イエス様が福音書でおっしゃったのは、心の中で兄弟を憎む者は法を犯したのと何ら変わらないとおしゃっています。人間を縛っているのは実は細かい日常的に心に起こるこういった感情がほとんどだと思います。だからこそイエス様が必要です。