見えるところは綺麗だが
今朝青い空の下、歩いていた時にこんなことを思いました。「最適化された合理的な街並みに綺麗な空、この世界はなんて美しいのだろう」と。その一方で、「人間の心のうちの闇はどうしてこんなに深いのだろう」とも思いました。それは僕の心を見て思ったのです。
もしかしたら、人間は見えるところを綺麗にするのに長けているのかもしれません。どれだけ近代的なビルであっても、庭付きの豪邸であっても、そこに住む人たちの心がきれいだとは限りません。多くの会社では人間関係の不和があったり、もめごとがあるものです。家庭でもしかりでしょう。
つまり、見えるところが見えないところを必ずしも表しているわけではないということです。
見えないところこそが汚い
日本では、汚いものには蓋をするのが当たり前になっているので、日常生活を送る中で不快なものや汚いものはほとんど目につきません。そんなことには関心もないし、見たくもないのです。しかし、日常生活の中で、自分が機嫌よく過ごせない理由はどこにあるのでしょうか。それは、不快なことや汚いことが自分の内側から沸き起こってくるからです。自分からは逃れることができないのです。それは、イエス様がお語りになった言葉に書いてあります。
しかし、口から出て行くものは、心の中から出てくるのであって、それが人を汚すのである。というのは、悪い思い、すなわち、殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくるのであって、 これらのものが人を汚すのである。しかし、洗わない手で食事することは、人を汚すのではない」。
マタイ15:18-20
この世界の秩序は
しかし、そんな罪深い人間であっても、この世界をある程度まで平和にしてきました。それは人間のわざではなく、神のわざだと僕は信じています。聖書にある通り、神がこの世界を支配しておられるので、神がこのように世界を導いてくださったと信じています。もし、憐れみあり、怒ること遅く、恵み豊かな神がいない世界だったら、とっくのとっくに人類は滅んでいたと思います。
グローバルレベルで見るとこの世界は依然として危機的な大変な状況にありますが、今の日本は「相対的にまだ平和」ですが、いつ、政府が維持している秩序が崩壊するかは誰にもわかりません。ロシアのウクライナ信仰を見ても、世界の秩序が犯罪を抑止できないことが証明されてしまいました。
このような世界では、まずはクリスチャンが神を求めないといけないと思わされています。これは年始に与えられた御言ですが、この御言を実践する者になりたいです。
主は言われる、
「今からでも、あなたがたは心をつくし、
断食と嘆きと、悲しみとをもってわたしに帰れ。
あなたがたは衣服ではなく、心を裂け」。
あなたがたの神、主に帰れ。
主は恵みあり、あわれみあり、
怒ることがおそく、いつくしみが豊かで、
災を思いかえされるからである。
ヨエル2:12-13