宗教は弱い者が信じるものか?
宗教は弱いものが信じるものだと言われたりしますが、ある意味それは正しいと思っています。なぜなら、僕自身が弱さ、欠乏、乾きを覚えているからです。その欠乏は別に日々生きるために必要な食べ物や飲み物に欠いているというわけではありません。なぜなら日本であれば、ある程度まで健康で文化的な生活が保証されているからです。
僕が感じている弱さはこの身体や精神の弱さではなく、魂の弱さです。もちろん、身体や精神の弱さを感じることも多くありますが、それは聖書の神を信じる理由にはなりません。魂の欠乏の解決こそ主にあるのです。
なぜ主が必要なのか?
もし、身体や精神の弱さだけを感じて主を求めているのであれば、いつか主を必要としない時がやってきます。身体の弱さがあって主を求めている時、もしその身体の病が癒やされたり強められたりしたら、それ以降、主は不要になるのでしょうか。もし、心に傷を負っていて、主に癒やされたならば、その時から主を求めることをやめてしまうのでしょうか。
主との僕たちの関係はご利益の関係ではなく、愛の関係です。じゃあ、それはどういった愛の関係なのでしょうか?最も簡単な説明は、約2000年前にイエス・キリストが自分のために命を捨ててくださったという知識です。しかし、それは自分事にはなりません。他人事の知識です。
何が必要とされるのか?
旧約聖書でイスラエルの民が主から離れてしまったのち、主が繰り返し預言者を通して彼らに語っていることは、「主に帰る」や「主を求める」ということです。つまり、現在においては、既に主は十字架ですべてを成し遂げてくださっているので、あとは人間側が主体的に、能動的に、自主的に、「主に帰る」や「主を求める」人が主の愛に帰ることができるのです。
もちろん、他人が語った言葉で一時的に主の愛に帰ることはできるかもしれませんが、主の愛に留まり続けるのは難しいです。なぜなら、日常生活の引力が主から自分自身を引き離してしまうからです。だから、主の愛に留まり続ける者というのは、主を日々求め続ける者です。
変わらない約束
「主の愛がわからない」や「主の愛に帰りたい」という時は主を求めるときです。聖書にはこのようにあります。
主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、わたしはあなたがたに会うと主は言われる。
エレミヤ29:11-14
僕自身、ここ数ヶ月はずっと主の愛に帰りたくて主を求めています。