なぜ主のもとに行くか?
日常生活を送っていると、様々な時に、様々な理由で主に近づきます。それは、家庭、仕事、教会でのことかもしれません。または、自身や周りの人の経済的なことは健康のために祈るかもしれません。聖書では、様々な理由でイエス様に助けを求めて来た人たちが登場します。
例えば、ある人は自身の病や家族の病の癒やしのため。ある人は孤独であったため。ある人は悪霊にとりつかれていたため、など様々です。イエス様のもとに来た理由は個々人それぞれですが、すべての人が癒やしや解放とともに体感し、経験し、本当の意味で主を褒め称えるに至った最大の理由は、なんだったのでしょうか?
僕たちを主に近づけること
実際、僕たちも日々の生活の中で感じる様々な苦しみ、悩み、弱さなど負いきれない思い煩いを主のところに持っていきます。そういったことが僕たちを主に近づける役割を果たしてくれています。僕たちは遠慮せずに、はばかることなく、このお方に助けを求めす。なぜなら、イエス様ご自身が喜んで、進んで背負ってくださるとおっしゃってくださったからです。
すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。 わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。
マタイ11:28-30
何故に主のもとに行くのか?
しかし、聖書にはこのような言葉もあります。
祈を聞かれる方よ、
すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。
詩篇65:2
ある人は、もしかしたら、主に助けを求めるほどの悩みはないかもしれません。もしかしたら、弱さを感じることもなく、すべて自分の力で自己解決できるかもしれません。実際に一歩社会にでると、主と共に生きていない人がほとんどです。表面的なところを見ると、主の助けなんか必要ないんじゃないかとも思ってしまいそうになります。しかし、聖書は宣言します。すべての肉なる者である人間は、罪があるから、主のもとに来るのです。
主はわたしたちのために命を捨ててくださいました。それは、罪なきイエス様が僕たちの罪を引き受けて、犯罪人として裁かれるためでした。罪は生まれた時から既に人間に性質として存在しているものなので、雪を見たことがない人が雪の白さや冷たさを全くイメージできないように、罪がある人は罪がない状態を全くイメージできません。「イエス様を信じると罪が赦されますよ!」とゆっても、「何?それおいしいの?」状態なのです。
それは、イエス様の十字架によって、罪が赦されたことを信じる時に、初めて、体験として感じるものです。赦されているということ。自らを縛るものが一切ないこと。孤独ではなく主が共にいてくださること。安心・安全であること。そして、本当に天のふるさとが存在し、永遠の命というものが存在しているという確信です。
祈を聞かれる方よ、
すべての肉なる者は罪のゆえにあなたに来る。
詩篇65:2
罪がない状態がどれだけすばらいのか、もっと多くの方が体験できるようにお祈りします。