主が共にいること
「主が共にいる」という体験は、主が目に見えない存在である以上、非常に個人的な体験にならざるを得ないと思います。人間であれば、共にいるということは、空間と時間を共にしていることになると思います。あるいは、精神的な側面から言えば、たとえ体は離れていても心は繋がっているという心の状態も共にいることに含まれるかもしれません。
しかし、神は霊であるため、こういった肉体や精神の領域ではなく、霊的な領域で主が共におられることを体験するしかありません。教義的に言えば、イエス・キリストの十字架により罪がゆるされ、神と和解するところからスタートします。そして、あなたがたと捨てて孤児としないとおっしゃったイエス様の約束通りにくだった聖霊によって神が共におられることを強く体験できるようになりました。
主の臨在を強く感じる時
主の臨在を普段よりも強烈に感じる場面は個人的には三つあります。礼拝とクリスチャンとの交わり、そして、伝道です。これら、3場面においては、個人的に聖書を読んだり祈ったりしている時とは違った主の臨在や愛を感じることができます。
もし、日常生活を送る中で、礼拝とクリスチャンの交わりと伝道を絶えず実行できれば、どれほどの主の臨在を感じ続けることができるだろうと思います。しかし、実際は日々の仕事や家事などに追われるように生きていて、なかなか、そのような時間を取り続けるのが難しいというのが、現代クリスチャンの悩みだと思います。
主の臨在を静かに感じる時
しかし、主は個人的な交わりを重視してくださるお方で、日々の生活の中で、共にいることを静かに教えてくださることがあります。それは、非常に個人的で主観的な体験です。例えば、個人的にはこれまでこういった体験をしました。
- どうしてもあの人だけは赦せないと思っていたが、その人を心の底から赦す気持ちになった。
- 自分のことばかり考えていたが、本当に誰かに貢献したいという気持ちが沸き起こった。
- 相手の立場になって、相手の気持ちに寄り添うことができた。
- 置かれている環境に関して全感謝の気持ちが生成された。
こういった変化は目が開かれるという表現が適切です。僕自身は非常に自己中心的な人間で不平不満も多い人間です。ですので、こういった気持ちが沸き起こることは本来あり得ません。しかし、主が共におられる時、イエス様の愛の影響をわずかに受けて、イエス様のご性質にわずかながらに触れられて、心の中に大きな変化が起こるのです。聖書にはこのような御言があります。
しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
コリントⅠ 2:9-10
主は自己中心的な僕の心には到底心に思い浮かびもしなかったことを、御霊によって与えてくださったのです。イエス様は本当に生きていて、一個人のつまらない人生にも介入してくださり、さらに心にも働きかけてくださるお方です。こんな古い自分の罪の性質から解放してくださるお方は本当にすごいなと思います!!