受動的に生きているとすぐに落ちる
イエス・キリストはインマヌエルの神、すなわち、共にいてくださる神ですが、日々の生活を歩む中で否定できないのは、自分から主ご自身を求めていくことをしないと、あっという間に、自己中心的な生き方をしてしまうということです。自分から主体的に能動的に命の言葉である聖書を体の中に取り込んだり、主との交わりである祈る時間を設けないと、またたく間に日々の引力に引っ張られてしまいます。
もちろん、自分だけで完結して信仰を維持できる人は幸いな人かもしれませんが、人間は人とのつながり、特に霊的な信仰のつながりによって、その魂が育まれるものだと思います。例えば、出エジプト後のイスラエル人は「また、みな同じ霊の食物を食べ、みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。コリントⅠ10:3-4」というような生活をしていました。みんなで同じ霊の食物をたべていたのです。
教会や神の家族の中にある祝福
それゆえに、みんなで教会に集まって礼拝することろにも豊かな祝福があるのも事実です。また、「見よ、兄弟が和合して共におるのはいかに麗しく楽しいことであろう。詩篇133:1」とあるように教会の兄弟姉妹との交わりの中にも主がそこにおられ、豊かな祝福があります。さらに教会での奉仕、それがたとえ、掃除であったとしても、そこに信仰があるならば、魂が半端なく恵まれるのです。
ですので、クリスチャンは一人であっても教会であっても霊的な祝福を求めるようになります。霊的な祝福そのものは聖霊と言われているものであり、私達一人ひとりに注がれ、満たしてくださり、イエス・キリストのご栄光へと近づけてくださるものです。
聖霊は量的なものなのか
ある人は聖霊のことを、ガソリンに例えていました。車がガソリンがないと走れないように、クリスチャンも聖霊というガソリンがないと主と共に歩み続けられないということです。昔、僕は聖霊なる神を量的指標で捉えることに違和感を感じていたのですが、自分が生活を送る中で、はやり、日々聖霊の満たしがないとやっていけないと強く感じるようになりました。
そこで、ガソリンよりももっと低俗な例えかもしれませんが、今ではこのように理解しています。毎週教会に行くと恵まれるので、聖霊コインというものが100枚付与される。そして、日常生活の軋轢の中でそのコインが消費されていきますが、日々、聖書や祈りの中から、また聖霊コインを付与していただいて、一週間走り続けるのです。
日々祈り続けて御言に励まされるなら、より多くの聖霊コインを付与されて、力強く主の証人となれるでしょう。そのような生き方を目指しつつ。