中国の家の受洗者数
聖歌隊の練習が終わってから、家まで車で送ってもらった時の出来事の続きです。です。後部座席に一緒に座っていた姉妹が途中で下車し、運転手の姉妹と私が話を始めました。
彼女は、自分が救われた経緯を話してくれました。彼女は湖北省出身で5年前に広東省東莞市に来て、友人の紹介で教会へ来るようになり、3年前に洗礼を受けたそうです。
私の通う家の教会は、急成長のゆえ、彼女のような受洗後1年~3年の人が非常に多いです。現在の信者数は1000名ほどですが、毎年150名ほどの新生クリスチャンが生まれています。
この教会では、洗礼式が毎年4月と9月の2回もたれます。受洗希望者は一ヶ月前から、洗礼の意味やキリスト者として生きることはどういうことか、など基礎知識を教会で勉強しています。
ただ単に人数が増えればいいわけではなく、ただしい信仰をもった人をキリストに導くことが必要です。この勉強会は安易な理由や動機から信仰に入ろうとする人たちに対する一種のフィルター的な役割を担っているようです。
圧倒的に多い新生クリスチャン
毎年、数百名が洗礼を受けているとなると、もちろん、教会内は信仰歴の長い古株やクリスチャン2世よりも新生クリスチャンが圧倒的に多いです。
クリスチャン2世が多い教会で育った私にとって、新生クリスチャンが多い環境は、非常に新鮮で、刺激的です。彼ら、彼女は、伝道に積極的で聖書研究に熱心であるだけでなく、暗唱できる聖句が多いのにも驚きます。
その上、祈りが大好きで、祈りの語彙が非常に豊富で驚かされます。そんな彼ら彼女らと交わっていて、はっと気づかされることが多くあります。それは、彼らの溢れ出てくる救われたことに対する喜びや純粋な幼子のような信仰などです。まさに、先の者があとになり、あとの者が先になるをひしひしと感じてしまいます。
先日も彼女が車中で言っていた御言が、今でも頭に残っています。「私は弱いから、イェス様から離れるかもしれない。だから、いつもこうお祈りしています。」と言い、箴言の御言を暗唱しました。
すごく謙遜で、純粋な人だと思いました。
クリスチャン2世としての自分
私は受洗してから17年、本当の意味でイェス様を知ってから10年、自分のいわゆる「信仰歴」を見て、これは本当に虚しい数字だと思いました。もちろん、「信仰歴」という物差しで、その人が「クリスチャンとしてどうか」を図るのは、人間的であって、聖書的でないと思います。
ただ、聖書には耳が痛くなる言葉も記載されています。
あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
私は中国において、自分の信仰歴を言うのが、いつも恥ずかしく感じられました。以下のような質問を投げかけられて何度も戸惑いました。
ある聖書箇所に対する、自分の意見を言ってください。
3分で福音を語ってください。
3分で救いの証をしてください。
好きな聖歌を賛美してください。
今まで何人を救いに導きましたか。
伝道に弱い自分をいやというほど知らされた。
立っていると思う者は、倒れにないように気をつけなさい。
カナンの地は今日も輝いています。