1884_聖書を色々な訳で読んだほうがいい理由 | 新改訳2017と口語訳

いろいろな訳

聖書は色々な訳で読んだほうがいいと言われています。それは訳によって理解や受け取り方が変わることがあるからです。もっとも原語に忠実に理解したいと思うのであれば、ヘブライ語、アラム語、ギリシャ語で理解する必要があります。しかし、神学校にでも行かない限り、ヘブライ語やギリシャ語で聖書を読む人はほとんどいないでしょう。

そうなるとこのような疑問もわいてきます。「変な理解してしまったらどうするんだ?」、「理解の差が生まれ救いが不完全になったらどうするんだ?」

この点においては問題ないと理解しています。なぜなら、聖書は知識で読む以上に、霊で読む書物だからです。もし、正しい心で信仰を持って読むのであれば聖霊が正しく理解できるように助けてくれると信じています。その点において、救いからもれるというようなことにはならないと思っています。

恵は多くなる

しかし、恵みにおいては違うと思っています。聖書を知れば知るほど、神様のことを知ることができ、より多くの恵みを味わうことができると思います。だからこそ、聖書は色々な訳で読んだほうがいいと言われているのだと思います。

先日、教会の説教で語られた箇所で「こんなこと書かれていたっけな?」というような聖句がありました。それはこれです。

ペテロの第一の手紙 3:21(新改訳2017)
この水はまた、今あなたがたをイエス・キリストの復活を通して救うバプテスマの型なのです。バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。それはむしろ、健全な良心が神に対して行う誓約です。

僕は「バプテスマは肉の汚れを取り除くものではありません。」という一文に驚きを隠せなかったのです。

口語訳

僕は教会では新改訳2017の聖書を使っていますが、普段は口語訳を使っています。理由としては、暗唱聖句の覚え直しコストが大きすぎるので口語訳を使い続けているからです。当該聖書箇所は口語訳ではこのように書かれています。

ペテロの第一の手紙 3:21
この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

わかりやすいかどうかは原語次第なのですが、新改訳2017と口語訳を比較した場合、口語訳がわかりにくいことに気づきます。

まず「バプテスマが明らかな良心を神に願い求めることである」というのはどういうことかすぐに理解できません。そして、「バプテスマが私たちを救うものであると書きつつも、体の汚れは除くことができない」というのも、救われはするが、体の汚れを取り除けないというのも用語の解説がほしいです。

新改訳2017

その一方、新改訳2017は下記が明確に書かれています。

  • バプテスマは復活の型である
  • バプテスマは肉の汚れを取り除くものではない
  • バプテスマは健全な良心が神に対して行う誓約

うーん、これを見ると口語訳やめて新改訳2017に乗り換えたほうがいい気もしますが、暗唱聖句の覚え直しはしたくないので悩ましいです。

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