1817_異言の祈りはなぜ心を解き放つのか | 緊張から解放されて主の平安に包まれる体験

美しい心象風景

いつまでも美しい心象風景として記憶として残っていることがあります。僕の場合、そのほとんどはある時の礼拝や集会の記憶です。主が深く心に触れてくださること、またご臨在くださることほど美しいものはありません。人知を超えた震えるほど感動に包まれるのです。

そういった体験をした夜の集会が終わったあとの景色は全く違うものように見えます。見ている景色はいつもと全く変わらないのに、すべてが輝いて見えるのです。それは主が共にいてくださること、聖霊に満たされることの素晴らしさの一つだと思います。それはおそらく、天のふるさとの前味でもあると思っています。

集会に依存するものか

では、そういった深い感動は集会に依存するものなのでしょうか。僕はそうではないと考えています。確かに集会にしかない特別な祝福や主のご臨在があります。しかし、主は量ではありません。濃度でもありません。強弱でもありません。ご臨在くださるかどうかだけなのです。

僕は以前ブログでこのようなことを書きました。それは、異言の祈りによって主のご臨在に瞬間的にあずかることができるということです。

聖霊に満たされる時に異言が伴う

異言の祈りには賛否両論ありますが、僕にとってそれはどうでもいいことです。なぜなら、異言の祈りの中で味わうことができるイエス様のご臨在の震えるほどの感動、これ以上にない美しい体験は誰が何を言おうとも否定できないからです。

僕はペンテコステ派の教会で救われ、聖霊に満たされる時に異言が伴うという教義が当たり前の中で育ちました。僕はそのような教義が当たり前の教会で育ててもらえたことを心から感謝しています。

主の優しい腕の中に包まれる

だから、今日もオフィスを出て駅まで歩く中で僕はマスクをして異言の祈りをします。そうすると、僕の心はあらゆる緊張から解き放たれて主の優しい腕の中に包まれる体験をするからです。その中で僕は主を心から褒め称えるのです。

詩篇 4:8
わたしは安らかに伏し、また眠ります。主よ、わたしを安らかにおらせてくださるのは、ただあなただけです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)