1715_自分の命が惜しいと思うようになったきっかけ

失うものが何もない

僕は中学校を卒業してからも中二病のような症状を抱えていきていました。著しく自分よがりで、とがった思想を持っていました。また自分の命は空気よりも軽いと思っていました。「どうせ」という言葉を多用して、斜め上からこの世界を見ていたと思います。

実はそんな考えがあったので中国に行けたのかもしれません。失うものが何もないという状態は強いです。日本社会でのレールも、老後の生活(年金の支払いしない)もお金も結婚などもすべて捨てることができたのはその思想のおかげです。そうでないと、単身でとりあえず日本語教師として中国に入り込み地下教会に行くという選択はできなかったと思います。

こどもの救いに関すること

しかし、中国から帰ってきてただただイエス様の憐れみと恵みによって、再び日本のレールに戻り結婚し子育てに参与するようになって、はじめて自分の命が惜しいと思うようになりました。こどものためにも長生きしたいし、祈ってやりたいし自分がこどものためにできることは惜しみなくしてやりたいと思うようになりました。

こどものためにできるというのは、心身ともに成長できるように親として必要なものを備えることもありますし、良い教育を受けさせたりすることも含まれます。しかし、僕が最も関わりたいと思っていることは、こどもの救いに関することです。それこそが最も価値あることだからです。

魂の救いだけは永遠に続く

心身ともに成長することや良い教育を受けることの影響はこの世界に限定されます。それは栄華を極めたソロモンでさえ、空の空と言ったほどです。この世のことは過ぎ去り、虚しいのです。

しかし、魂の救いだけは永遠に続きます。僕がそう思うのは、イエス様との出会いによって文字通りすべてが変わったからです。イエス様と出会う体験をすることこそがこの世界で最も価値があり、最も美しく、最も栄えあることです。

キリストにあって満ち足りる

虚しいの対義語は充足、満ち足りている、満足です。この世界の何ものによっても永遠の充足を得ることはできません。しかし、キリストを得るならば、虚しかった心はイエス様によって満たされます。そして、もう二度と決して自分を満たすことがなかったこの世的なもので自分を一時的に満たす必要はなくなります。

自分の命が惜しいと思ったきっかけが自分のこどもという時点で僕はまだ利己的な者だと思います。しかし、そうであっても、魂の救いに携わりたいから自分の命が惜しいと思える者に造り変えて頂けると信じています。

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