1071_いつしか周りを気にして祈るようになっていた

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真実な心

先週は非常に大切なことを教えてもらいました。それは「真実な心」ということです。僕は自分が神様に対して真実な心をいつも持っていると思ってしまうことがあります。しかし、自分の心を深く探られると決して真実でないことが顕わになります。それは心の中のことであったり、言葉にも表れます。

まず、心の中のことに関して書くと、例えば、「神様が僕を赦してくださったようにすべての人を受け入れます。」と思っていても、もし、心の中に「あの人は苦手だから」とか「あの人は以前〇〇されたから」という苦々しい思いを持っているなら、それは神様に対して偽っているのであって真実な心があるとは言えません。

祈りにおける不真実さ

次に言葉を見ています。人は弱さを持っています。それは祈りとは神様に対してなされるものであるにもかかわらず、周りの目を気にして祈ってしまうことがあるということです。たとえ本人にその自覚がなかったとしても人間は社会的な生き物であるのでそれは当然のようにも思います。

やっかいなのは、全く思っていないことを祈りの言葉として出してしまうことです。従うつもりがないのに「あなたに従います」とか待ち望む気がないのに「あなたを待ち望みます」とか、言ってしまうことがあります。少なくとも僕にはありました。

大人になるにつれて

しかし、思ってみれば、救われた当初、17歳で非常に純粋だったころは本当に周りのことを気にせずに、表現や言葉は粗削りでしたが、ただただ神様だけを見て祈っていたように思います。それが、いつしか、大人になり「ある程度きれいな祈りがあるよね」ということを思うようになり、なんとも当たり障りのない、神様に足して不真実な心で祈っていたことがあったと悔い改めさせられました。

もちろん一人で祈る時に真実な心でいるのは比較的容易かもしれません。なぜならそこには自分と神様しかいないからです。しかし、聴衆の前で祈る時、こんなことを祈ったら周りはどう思うのか?不信仰と思われるのではないか?とかそういったものを気になることがあります。

いかにして祈るか

じゃあ、なんでも祈ればいいか?というとそれもまた違います。なぜなら、最初にも述べたように人間は社会的な生き物であり、TPOは極めて重要だからです。それを前提としたうえで、今自分の心は主に対して真実なのか?という問いかけから神様に祈っていけば、TPOに即し、かつ神様に対して真実な祈りができるのではないかと思いました。

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