1323_国富論だけで上中下巻で3冊

経済学は面白い

昨日は最近、歴史の本にはまっていると書きました。これまで経済のことは全く興味がなかったのですが、レイダリオから始まってケインズやフリードマンなどにも興味が湧くようになりました。

僕は非常に無知で偏見があったので、経済学とは結局は人間の欲望に集約されるものであり、金儲けのことだろうと思っていました。しかし、実際は政治も福祉もテクノロジーも金融も宗教も経済とは切っても切り離せないことがわかり、これは面白い!と思うようになりました。

知の巨匠と呼ばれる人たち

それから、書店に行っては立ち読み、時には本を買って読んでいるのですが、驚いたことがあります。それはケインズしかりアダムスミスしかり経済学者が書いている本はほとんど1冊の本にまとまっているわけではなく、分厚い本が数冊~何十冊にもわたって書かれているのです。

先日もアダムスミスが書いた国富論を読んでみようと思って書店に行ったのですが、国富論だけで上中下巻で3冊に分かれていたのです。僕は知の巨匠と呼ばれる人たちはもれなくこういう人たちなんだと驚かされました。

それは頭の中に大きな思想や思索があってそれを表現するには本何十冊を書かないと人に伝えることはできないということです。当然ですが、僕の頭の中は大したことを考えておらず、スカスカなので、この世界にはこういう人たちがいるということに新鮮な驚きを抱いたのでした。

パウロは誰もが認める知の巨匠

今朝はそんな感動を余韻に聖書を読んでいたのですが、こんなことを思いました。それは、きっとパウロも知の巨匠と言われる人々と同じような人であったんだ、ということです。パウロは厳格なパリサイ派でストイックの中のストイックで博学強記でした。

使徒行伝では総督フェストスに「パウロよ、あなたは気が狂っている!あなたの多くの学問が、あなたを狂わせている。」と言わしめました。パウロは誰もが認める知の巨匠だったのです。しかし、だからと言ってパウロは何十冊もキリストに関する書物を書いたわけではありません。

聖書はわずか1冊にまとめられている

書店へ行けば経済学者が書いた分厚い本のシリーズが数十冊も並んでいます。そしてそれを理解するのは簡単なことじゃありません。それに比べて聖書はわずか1冊にまとめられています。確かに聖書には難解なところもあります。

しかし、聖書は霊で読むものであり、たとえ僕みたいな無知な人間でも聖霊によって教えていただけるということはとてつもなく大黄な恵みだと改めて思いました。

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