自分の気持ち
クリスチャンであると「自分の気持ちに対して正直になる」ということが難しく感じることがあります。なぜなら、クリスチャンの生き方というのは罪深い自分自身の徹底的な否定の連続だからです。聖書にあるように日々自分の十字架を背負って自分の肉を十字架に着け続ける生き方だからです。
そのような態度で生きていると「自分の純粋な気持ち」と「自分の肉的な思い」の境目がわからなくなってしまうのです。
配偶者を選ぶ時
例えば、自分が「ある考え」があるとして、それが純粋な良心から出ているものなのか?あるいは肉的な思いから出ているものなのか?どのようにしてわかることができるでしょうか?
こういったことは、クリスチャンが配偶者を選ぶ時に直面する問題ではないかと思います。これは正しい思いなのか?自分の肉的な思いなのか?配偶者を選ぶということは強い感情が働いてる場合が多く、冷静に客観的に意思決定するのが難しいことが多いです。
霊例なくして実生活への応用なし
神の御心は聖書に記載されていますが、それを自分の実生活や具体的な課題に落とし込むのは人間側の役割です。聖書の御言を実生活に応用させてそこから気づきを与え、行動できるようにするのは聖霊の働きです。
ですので、配偶者を選ぶなどの人生の一大事においては、聖霊の助けなくしてできないということです。
しるしを求めることは?
ある人は、重大な決断をする時は聖書と祈りとしるしを求めなさいと言っていました。しるしを求める方法は聖書にも多くの記述があります。イサクの配偶者を選ぶ時にしもべはしるしを求めて、実際にそのとおりになりました。
しかし、新約聖書におけるイエス様の言葉を見るとしるしを積極的に求めるのはどうかと思うことがあります。
平安があるかどうか
僕が重大な決断をする時に大切にしてきたことは「心に平安があるかどうか」です。これは言い換えれば聖霊が心の中に住まわれているか?ということです。
時々、クリスチャンの友人に相談されることがありますが、僕はいつも「心に平安がありますか?」と聞くようにしています。神様とその人のことは非常に個人的なものです。外野はその人の神様との個人的な関係まではわからないので何も言うことができません。
もし、今重大な判断をしないといけないことがあり、心に平安がないなら二つの方法があると思います。まずは平安がくるまで粘り強く祈る。あるいは、平安の邪魔をしているものを捨てる決断をすることです。
平安がくるまで粘り強く祈る忍耐の時、大切なものを捨てないといけない時は非常につらいものですが、それは間違った決断をして長く苦しむことを考えたらはるかに優しいものだと思います。