需要が先か?供給が先か?
卵が先か鶏が先かという議論があります。例えば、需要と供給においても、需要があるから供給が生まれるのか、供給があるから需要が生まれるのか、それはどちらとも言えます。たとえば、僕が中国にいた時、職場から歩いて1分のところにマクドナルドがありました。特にマクドナルドが好きってわけでもないのですが、週に3回も4回も行っていました。もし、徒歩一分圏内にマクドナルドがなければ決して行くことはなかったでしょう。ただそこに供給があるから需要が生まれたのです。潜在的な需要を掘り起こしたパターンかもしれません。
しかし、逆のパターンで、明確な需要が存在していて、供給するということも多いです。例えばインフラなんかはそうです。水道、ガス、電気、通信などのインフラは絶対的な需要があるので、供給が必要とされいます。
立場が先か?能力が先か?
他にもいろいろあります。例えば、「人は役職を与えられることによって、その人が役職に合わせて変わるのでしょうか?それとも、その人に役職にふさわしい能力が既にあるから、役職を与えられるのでしょうか?」僕はずっと、後者であるべきだと思っていました。たとえ、役職、立場、タイトルなどが与えられなかったとしても、必要な能力は身に着けるべきだと思っていたからです。
しかしながら、おそらくマクドにしろ、こういったことにしろ、卵が先で鶏があとというのは明確に線引きができないということについこの間気が付きました。相互作用的で境界線が曖昧なので、両方に対して、そうだと言えるのだと思います。
クリスチャンは?
クリスチャンの場合はどうでしょう。当時、聖書で初めてクリスチャンという呼ばれ方がされたのは、当時の信徒が実際にキリストのような者として生きていたからこそ、周りのひとに「クリスチャン」(キリストのような者の意味)と呼ばれるようになったらしいです。これは驚くべきことであり、僕にとっては頭が下がることです。
しかしながら、当時のクリスチャンたちも元々は僕と同じような罪人あがりの恵みによって赦された人だったのです。つまり、聖い者と呼ばれる資格のない者がキリストの十字架の赦しとキリストの人格を付与する聖霊によってキリストのような者に変えられたのです。それは先に神が「あなたは聖い」とおっしゃって下さったところから始まりました。
自分からクリスチャンだと宣言して、クリスチャンと呼ばれるよりも、キリストのような者だと思われてクリスチャンと呼ばれるほうがはるかに聖書的だと思いました。これは自分に対するすごい高いハードルに見えますが、神に頼れば可能だと信じます。