どうなのか?
こんなこと書くと「どうなのか?」と思われるかもしれませんが、極論言ってしまえば御言だけでは人は変わらないと考えています。もちろん、御言には明確に魂を救う力があるとあります。しかし、その一方で誰でも聖霊によらなければイエスは主であると告白できないとあるように、御言と聖霊はセットであると考えます。
僕の経験上、御言と聖霊の導きによる試練のセットによって人は変えられていくと考えています。その試練によって金が精錬されるがごとく、余計な不純物が除去されていき純粋な信仰になっていくのだと思います。
強烈な試練
多くの聖書の人物もそうだと思います。彼らは強烈な試練、経験を通して練られていきました。モーセはユダヤ人としての教育を受け、当時最高級のエジプトの学問を教えられました。しかし、それが彼を変えることはありませんでした。
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彼が変えられるには羊飼いとしての空白の40年が必要だったのです。これは試練以上の試練だったに違いありません。自身の不甲斐なさ、失敗の後悔、苦痛を通して練られていったのです。
新約聖書に登場する、ペテロやパウロも同様です。御言だけではなくて「実際の試練」によって彼らは変えられ主の器として用いられていったのです。
キリストの足跡に従っていく
しかし、思います。「試練なしに御言だけによって金が精錬されるように聖められていけばいいのに」と。「確かにキリストのように変えられていきたい。しかし、試練だけはごめんだ」と。こう思うのは当然だと思います。なぜなら、試練は確かに厳しく、苦しく、痛く、耐えがたいものであることがほとんどだからです。
しかし、クリスチャンとは残念ながら?もれなくキリストの足跡に従っていく集団です。キリストの生きた道とは十字架の道です。そして主はおっしゃいました。「自分の十字架を負うて従ってきなさい」と。
痛みを負ってくださっているの
これが御言だけでは変えられることはないという理由です。主は御言と聖霊の導きによる試練とセットで人を変えられます。しかし、幸いなことはその試練の中に主が共にいてくださること。必要な慰め、助け、希望を与えてくださること。そして、試練の中で痛みを負ってくださっているのは実は自分ではなくイエス様ご自身なんだと知ることができます。
マタイによる福音書 11:29-30
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから、わたしのくびきを負うて、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。
わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。
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