1514_嫁さんとCSのこどもの家に訪問に行って

主が訪問したい

昨日は教会が終わって夕方からあるCSの子どもの家に夫婦で訪問に行きました。それは祈る中で「主が訪問したい」と思っておられると心に強く感じたからです。その子はしばらく教会に来れていませんでした。日曜日の朝、教会に行く前に嫁さんに「〇〇ちゃんのところに訪問行きたいと思うけどどう?」と聞いたらすぐに同意してくれました。本当にクリスチャンの嫁さんでよかったと思いました。

そして、日曜日の一日の行事が終わって夕方に嫁さんと一緒にギターとパソコンをもって訪問しました。

玄関にご臨在

訪問すると、そのCSの子どもは聖書を持って出てきてくれました。僕は「この子は飢え乾いている」と思いました。そして、僕ができることは、僕の言葉でもなく存在でもなく小手先のテクニックでもなく、ただ主がこの場所にご臨在くださって、子どもの心に触れてくださることを祈るだけと思いました。

玄関でギターを持って賛美をしてCSの説教をしました。そのあとで、嫁さんと二人で祈りました。僕はこの礼拝の時間、主が玄関にご臨在くださったと思いました。

CSの子どもに対する愛はない

僕は冒頭であえて「僕が訪問したい」とは書かずに「主が訪問したい」と書きました。それは僕には愛がないのを知っているからです。僕には一人のCSの子どもに対する愛がないことを知っています。僕自身は周りの人に対する関心も愛も何もありません。ただただ自分だけが良ければいいと思っている自己中心的な人間だと知っています。

しかし、驚くべきことは、主はそのような僕の空っぽの器の中に来てくださって満たしてくださり、そして主の御心を教えてくださるだけでなく、主と一心同体で生きる幸いを体験させてくださるということです。それはガラテヤ書の有名な聖句が的確に言い表しています。

生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである。
ガラテヤ人への手紙 2:20

空っぽの器になりたい

僕は「このように生きたい」と思わされました。これは僕がこれまで知っていた「主と共に生きる」という言葉は一体なんだったんだと思うほどの体験だったからです。これこそが主と共に生きることなんだと思わされたのです。今、僕は喜んで空っぽの器になりたいと願います。

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