予感、実感、確信
信仰をもつには過程があると思うのですが、それはこの三つの言葉で説明できると思います。それは、予感、実感、確信です。それは自分自身の経験や聖書の人物から見てもそういった過程を経て信仰に至ったのではないかと思うからです。
例えば、旧約聖書のナアマンもそうだと思います。彼はユダヤ人ではありませんでしたが、彼の僕はユダヤ人でした。もしかしたら、彼は以前より僕の信仰を見て何かを感じていたのかもしれません。
彼は確かに実感した
そして、僕からエリシャのことを聞きます。彼は意外にもユダヤ人の神であれば自分の病を癒せるのではないかと思ったのです。これは彼にとっての小さな信仰の芽である予感でした。
それから、彼はエリシャのところに行きますが、彼はエリシャに軽くあしらわれたように感じました。この時、彼の予感は弱まったかもしれません。しかし、彼にはユダヤ人の僕がいました。ナアマンは彼に説得されてエリシャのいうことを実行します。
エリシャの言ったとおりにすると病はいやされました。彼は確かに実感したのです。そして、彼はユダヤ人の神こそが真の神であることを確信したのです。
予感をつぶさないように導く信仰者
この物語は2つのことを教えているように思います。一つは信仰の小さな芽である予感をサポートした信仰者がいたということでした。小さな芽は簡単にしおれます。もしかしたら踏みにじれるかもしれません。しかし、僕がいたからナアマンは救いを得たように予感をつぶさないように導く信仰者が必要だということです。
2つ目は、信仰の確信に至るには、実感を経るものだということです。僕は幼いころから教会に行っていましたが、救いの確信はありませんでした。それは情けないながら、洗礼を受けてからもそうでした。なぜなら、僕は相変わらず罪の傾向をもっていたからです。
実感は確信に至らせる
しかし、自分が能動的、主体的、自主的に主を求めた時にすべて変わりました。最初は主が生きておられるなら僕にも出会ってくださるはずだという予感から始まりました。
そして、祈り続ける中で時が満ちて、確かに罪が赦されたという実感を得ました。それが僕にとっての本当の救いでした。それまでは救われていようがいまいが聖書の言葉を信じるしかないと思っていました。しかし、実感は確信に至らせました。
罪が赦された実感
もうそれから20年以上たちますが、それ以来、その確信が揺らいだことは一度もありません。それは罪が赦された実感があるからだと思います。
あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。
エレミヤ書 29:13-14